デブを改めたい。

双極性障害Ⅱ型と診断され7年。身も心もスッキリしたい。

運命の一枚を探せ!~2019年輝くレコード大賞~

 


今年は、家族行事が多く、音楽鑑賞も読書をゆっくりできる暇もなく(読書は皆無)、レビューなんてできるほどのもんじゃないですが、毎年これはやりたいなと思うので、やります。

 
以下、(アーティスト名/タイトル名/リリース年)とさせていただきます。左上から時計回り順。

 

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①Cuushe/Butterfly Case/2012

引っ越しの時に彼氏のCDを整理してたら、ジャケットがめっちゃかわいい!とのことで聞いてみたら、音楽もめっちゃかわいいやんか!自分の飼い犬に似てる。鈴の音に乗って犬たちが走っているのを思い浮かべる。

椎名林檎/ニュートンの林檎/2019

自腹切って購入したアルバムの一つ。初期の林檎さんより、最近の林檎さんの方が個人的には好きかな。関ジャムの林檎さん特集、最高におもしろかったよね。すごい頭のいい人なんだな…尊敬。

サカナクション/834.194/2019

ボーカルの山口って人がいかにも東京に出てきたイキリ野郎という感じで今まで気に食わなかったが、近年は星野源の影に隠れてしまい(私の中の勝手なイメージ)、ザマアミロと思っていたが、新宝島は好きだったしなんとなく興味あったので彼氏に買わせた。聞いたら…ファンになってしまった。ユリイカという曲が好き。

Cornelius/SENSUOUS/2006

なんかほんとこの人もすごいよね。Sleep Warmというラストの曲がかわいくてかわいくて。ディズニーに行った気分に。Wataridoriという曲を聞くと、いつも立体図形を想起する。

Frank Sinatra/Only The Lonely/1958

④であげたSleep Warmという曲はシナトラの曲なんだね。思わず原曲を聞きたくてCD買っちゃったよ。眠る前に聴くアルバム。

⑥Bonobo/Fabric Presents Bonobo/2019

いや〜〜安定のボノボボノボ本当に好き。最高。天才。今年出たアルバムも最高でしたよ。今年聞いた中での、ベストアルバムですよ。

 

 

YouTube編〜


【シバター監修MV】俺たち金持ちYouTuber/カルxピン(11thシングル)

アイドルを応援する人っていると思うんだけど、私にとってのアイドルはYouTuberのヒカルなのである。どうしてこんな奴に魅力感じるの?って彼氏に言われるけど、ただただ真っ直ぐ頑張ってる過程を見せてくれるから。ヒストリーを見せてくれるんだよね…姫路が生んだヤンキーまがいのあの感じもほんと好きなんだよ。

 
〜写真集〜坂田阿希子/CAKES/2017

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一冊購入したが、そんなによくなかったのでそれは紹介しないが、坂田阿希子さんのCAKESというおかしのレシピ本、ほんとうに写真がかわいくてこんな風に料理したい!こんな風に季節を過ごしていきたい!お皿欲しい!おかし作りたい!と思わせてくれる素敵な本。装丁も写真集っぽかったのでこちらにあげておきます。

 
〜本〜

本は読了した本がなく、中途半端にほったらかしの本が二、三冊。というか12月に読み始めた本が多く、読み終えていない。

今年は時間があればYouTubeしか見てなかったし、5〜6年前からYouTubeを結構みてたクチだけど、もうYouTubeも上げ止まりがすごくて。最初は素人感満載の動画が新鮮で楽しかったし、最近は教育系?YouTuber(ホリエモンとかヒロユキとか)も見てたけど、なんか知力知識が広がらず、ある程度みちゃうとそこから世界が広がなくなり。暇つぶしになるとは言え、これを見続けるのはさすがに脳がスカスカになりそうだし飽きたな、と。NET FLIXやAmazon Primeも見てたけど、どうも私はバイオレンスとか刺激が少しでもあると、それに気持ちが影響されて疲れてしまうので。映画はいきなり怖いシーンとか出てきてビックリすることがとにかく多い。それなら、本を読んでみたら?本なら進むのゆっくりだし、情景が進むのが遅いからバイオレンスシーンがあってもある程度、自分で読み進めるスピード決めれるし…。頭も使うし…。ということで、ドラマや映画が見れない分、最近は本の良さを再確認しています。と言っても10分くらいしか読んでないけど。来年はここでも読んだ本を挙げれるようになりたいな…。

 


今年もありがとうございました。また来年もよろしくお願いします。

普段と変わらない日記

 


 

双極性障害ってつくづく嫌な病気だな、と思う。嫌な病気、というより、タチの悪い病気と言った方がいいだろうか。

日々生活をする上で、「仕事をする」ということを頭に置いて、日々の体調管理や与えてもらった仕事は一生懸命こなしている(つもり)なのだが、どうもいい方向に事が進んでいない気がする。

語弊はあるが、負けの状況を自分で作っているような気がしてならないのだ。「貧すれば鈍する」という言葉があるが、負けの姿勢で挑んだ戦はドミノ倒しのように負けていく。逆に勝ちの姿勢でいるときの人間はどんどん勝ち進んでいくし、どんどん回収できる状況にある気がする。

とにかく自分の状況がうまく回っていないことは分かる。簡単に言えば、病気のせいだ。

自分がなんとかメンテナンスしても、大きな刺激やショックがあると、ものの見事に体調を崩し、共倒れのようにメンタルもやられていく。昏睡状態のように眠り復活したかと思えば、次は一睡もできず目が冴えるだけで、活動できず、なんとか生活を回すものの今度は風邪をひく。もういい加減にしてくれよ、と誰に当たることもできず、自分に当たる。当たっても責めても仕方ないのに、やり切れなさが溜まっていく。

多分、風邪をひいたとしても、眠れなくても、その現象自体は一つ一つは、大したことではないと思う。が、先述したように、負けの状況、貧しい状況で、負荷がかかると人はどんどん物理的にも金銭的にも、精神的にも荒んでいく。

なんとなく思うが、多分「仕事をする」というより「体力をつける」作業に専念した方がいいような気が、最近している。

自分を客観的に採点した場合、車に例えるならば圧倒的にガソリンがないのだと思う。根気もある、努力する気がある、頭も良く(どちらかと言えばです)、車のスペック面は充実していると思う。車を運転しても止まるのは、明らかにガソリンが足りないからだ。

しかも、ガソリンがないのに、わざわざ難しい道を走っている気がする。平らな道を最初は走ればいいのに、山の中にある岩だらけのような道を走っている気がする。もともと複雑で難しいことが好きな方だが、ちゃんと時に応じて簡単なことをチョイスする勇気は、絶対に必要だと思う。簡単なことをチョイスすることは、負けでもないし、諦めでもない。知恵だと思う。

体力をつけるために、歩いたり自律神経を整えることが至上命題だ。いつまで、こんなことで悩むのだろう。33歳になって、一体、私は何をしているのだろうと思う。が、もう年齢がどうとかそういう問題じゃないんだよ。年齢で諦めるなら、とうに諦めている。どうしても、私の中で譲れない問題なんだよ。譲れない問題は、大抵、偉くなんかはなく、そうじて人間のエゴだ。

なぜ自分が働くことに拘るかは分からない。どちらかと言えば、労働者の家庭に生まれ育ち、個人的に恨みもあるし、働くことが時として、人を傷つけ、人をいかに冷たく傲慢にさせるかも知っている。

客観的に見て、人が拘ってることの多くは、人から見たら大したことではなく、執着をなくせば、どんなことでも、解決することが多いというのは知っている。冷たい言い方をするが、それが病気であってもだ。受け入れ、人と違ってもあるままの日々を過ごすことは、むしろ真っ当なことだと思う。しかし、それを受け入れた上でも、どうしても譲れないものがあるというのは、矛盾しているようで、きっと身を結ばなくても、そこに「なにかがある」のだと思う。

20代の頃に、大学に行けなくなってから「普通の人は◯◯してる!」と泣き叫び悔しがるたびに、「普通なんてない」と母親や医師に、言われてきた。「普通は」「常識では」という言葉を安易に使う人も、短絡的すぎてどうかと思うが、私はある程度の「普通」ってあると思う。少なくとも、日々自分の生活の中で障害や身の不安を感じ、将来のことを考えると死んでしまいたいとか、どうせ自分は地獄に落ちるとか、ずっと悲観的になるのは「普通ではない」と思う。これが「普通だ」と言われると、途方に暮れてしまう。が、それを現実として食いしばってでも、生きていくしかないのだが。

が、33歳の人間達の話題にあがりがちな「会社で働いている」とか「結婚している」とかそういう「普通」に自分を照らし合わせるは、絶対に違っていて、自分の中で必要なことをやってあげるのが一番いいのだろう。子どもの発育状態に合わせて、まず実現可能な目標を考えるのが基本的な教育のセオリーだと思うが、それを自分に照らし合わせればいいだけだ。

かと言って、同世代人口の大多数がやっていることができず、自分は簡単なことから始めなさいと、自分に優しく言い聞かせても、プライドなのかなんなのか、「こんな初歩的なことからなのか…」と落胆する自分もおり、普段自分が怒りやすいのはこのためだと思う。どうして人一倍、やる気のある自分が、どうしてこんなにやれば色々できるのに、どうしてこんなことになった、いわゆる「こんなはずじゃなかった」という思いが、自分を支配しており、普段の怒りの燃料になってるのは確実にある。金持ち喧嘩せず、というが、怒って喧嘩越しになり、また貧すれば鈍する状況を自分で作っている。

本当にどうしてこんなことになったんだろうと思う。それなりに自分が置かれている状況で、楽する方法も知っている。迎合する道があるのも知っている。でも、納得できないのである。病気だからって弱いふりをして、人にかくまってもらうのはごめんだし、自分のある種、恵まれた状況を逆手に、中身のない虚勢を張るなんてまっぴらである。自己実現なんて、馬鹿も甚だしい四字熟語だと思うが、責めて自分の足で、自分の性質とも言える病気や運命に侵食されすぎず、自分の人生を歩いている感覚が欲しいのである。

小さい頃、うつくしいものを見、面白い漫画を読んで、出自や学歴などに関係なく、良いものが生まれ評価され、ネガティヴな事実でさえとっぱらってしまえる世界がとてつもなくおもしろく、素晴らしいと思った。自分がそんな世界で何かできるとは全く思わないけれど、「素の自分で勝負したい」。いらないものをとっぱらった自分で、人生を歩きたい。それは変わらずに自分の中で、一貫してあるのだと思う。だから拘るのだ。

「こんなはずじゃない」と思った時期から、時間が経った。その間にできないことばかりが目立って、人の苦しみばかり目がつくようになった。苦しみの想像力は、人を多層的な思考を持たせ賢くさせるが、どんどんこの行動でしか物の評価を測れない世界では損をしてしまう。その上、更に「素の自分で勝負する」のはめっぽうむずかしい。だが、酸いも怒りも苦しみもある程度、知った上で、それを自分の中でどう回収し、どう進めていけばいいかもある程度は分かってきた。勘として。一歩踏み違えば、不安の沼にまだ引き込まれるが、なんとかうまい方向に人生を進めていきたい。

 

みんなどれくらい喋っているの?

 

つくづく日本語が下手だなあと思う(日本語しか話せません)。特に話し言葉。最近、みなさまのおかげで体調をあまり崩さず生きれているので、必然的に外へ出るなりして人とのコミュニケーションをとっているけれど日本語って難しくない?

何かを説明する時、咄嗟に簡単な言葉が出てこない。疲れていると説明ができないことがある。というか人と話すこと自体を拒否しがち。

冒頭で話し言葉が苦手と書いたけれど、文章も下手くそ。自分のTwitterの文や、友人へのDMの返信を見返していると、同じ言葉を何回も重複して使ってるんだよね。きっと自分の伝えたいことが相手に伝わっているのかが、潜在的に不安だから重複させてしまうのだろう。ビジネスメールは推敲しながら書いているから、まだ読めるレベルなのですが、雰囲気が暗い(ビジネスと呼べるビジネスなんてしていましぇん)。相手に不快感を持たせていないか心配。人を傷つける言葉なんて、もちろん書いていないけれど、暗さって相手に伝染するじゃない。根本的な性格が、ダークネスなんでもうそこは諦めたらとは思いつつも、やだな〜って感じでメール打っています。

人との会話をサボってきたし、ずっと引きこもってたので、ハンディポイントはあるとは思う。が、それ以前に私は人と話したり交流を持つのが嫌いなんだよね。許されるのならば、ずっと引きこもって一人で横暴な振る舞いをして本当は生きていたいんだよ。でもさ、横暴な振る舞いを続け、あまりにも自分ばかり見ることに焦点を当てて生活していると、いざ外に出た瞬間、浮くんだよね。あまりにもコミュニケーションが下手すぎて。で、メンヘラって言われるっていう。生きていくためには、最低限の社会との関わりが必要だし。家から一歩も出ず生きていくのは、ほぼほぼ不可能なんで。病院とかマストな外出ってあるじゃないですか。だから、最近はがんばって会話しているのだけどさ。まぁ下手で、その自分のどんくささにイライラして、それでストレス溜めちゃってる部分が最近あるよね。

前は自分の下手さを「ちょっと不思議ちゃんのおっちょこちょいなぶりっ子」で誤魔化していたんだけど、ぶりっ子ってコストがかかるんだよ。声を高めにしたり、わざと浮世離れした雰囲気出したりさ。エネルギーを消費するし、その「自分に合っていないぶりっ子」を演じることにあたふたしてしまい、下手くそに愛想を振りまいていたら、墓穴を掘って余計に苦境に陥るパターンになるっていう。で、ぶりっ子って男に好かれるはずなのに男にも嫌われるんだよね。なので、最近はもうやめて、無表情の素のままの自分で話すことを心がけることにしました。低い温度を保つというか。下手に会話を埋めずに、輪の中から一歩引いた状態で参加するようにしています。楽。

でさ、ここからが本題なんだけどさ、これ読んでくれてる人は身近な人とどれくらいの単語数で話してる?ってことなのよ。私の配偶者は、周りでは有名な喋りな男で、飲み会とかでずっと話してるらしいし、私も色々と話せる所がいいと思って引っかけたんだけどさ。そして付き合って数年、話題は尽きることなく楽しく会話してるのですが、どうも単語数が他所様の会話より多い気がするんだよね。心の通い合いが、喋ることや報告連絡相談に重心を置いているカップルだと思うんだよね。恋愛相談とか夫婦のお悩みとか聞いたり読んだりしていると、「それってパートナーに(食い下がってでも)説明すれば済む話じゃない?」って思うことばかりなので(失礼)。それくらい、しつこく会話や説明に我々は依存しているのだろうな。

ということで、私は配偶者とのお喋りは楽しんでいることには楽しんでいるけれど、前述のような性格や過去があるので、きっと単語数が空気中に浮かびすぎると疲れてくるんだと思うのよね。でも、配偶者は嬉々として喋り続けているので、ヤバイなとたまに思うわ。

それで、喧嘩になった時も、強引でもある程度のロジックのかさまし?というかごまかし?、すりかえ?で勝とうとしてくるんだよね。あれがマジダサいな思うね。他のサンプルも見てると、国立大文系男子って面倒だなってつくづく思うよね(ジェンダーとかにうるさい人から怒られそう、すみません)。

なので、配偶者と話してると自分が頭良くなった気がするし、勉強になったような気がするけど(実際向こうは私の興味のあることを一緒に掘り下げて調べたり参考文献を出したりしてくれる良いママみたいなやつだ)、全然自分は単語の海に溺れているだけで、さして単語や文の組み立てが上手くなっているわけじゃないんだよね。なのでずっと会話は下手なままっていう。むしろ、こちらが壊滅的な文を書いていても話していても向こうは理解できるんで、むしろ悪化しているのではないかと思う今日この頃です。それって家庭教師にお金をつぎこんで全然勉強しないタイプの生徒と同じやん。ダメやん。

私は病気になっていなかったら、能力主義個人主義のグローバル人材サイコパスみたいなのになっていた可能性が高い反面、向こうは道徳・周りの調和を重んじる、よく知らんけど、儒教とかの有名人にいそうな感じの人なんで、高度な社会にやさしいコミュ力を求められると、疲れているときは性に合ってないことを強いられているので、煮えたつくらいイライラするんだよね。

私は向こうの性質を尊重して強いたことはないのにな〜〜〜〜おっと、これ以上愚痴っぽいこと書くのは家でやれよって話なんで終わります。

ということで、皆さん身近な人とどれくらい話してます?そんな感じのブログでした。でもさ、5年前の他サイトのブログに書いてた文って、文の形態を成していないんだよ。たまに読み返したりすると顔から火が出るほど恥ずかしくて。今日の分も40分くらいで、読み手にそこそこ通じる文を書いていると思うんで、一応は努力しています…。なので、私と交流のある方はお手柔らかによろしくお願いいたします…。

 

病気のことを書こうと何個かネタはあるんですが、こういう本題になると疲れてしまうので、最近くだらないことを書きがちですみません。あと疲れていても、絶えず何かしらするなり、動かないとムズムズするのでそこが辛いです。辛い辛いよー!何もしたくないよー!

 

 

 

 

 

魚のカルパッチョと料理本

 

暇なんで、Twitterに載せた魚のカルパッチョの作り方と、おすすめ料理本を載せておきます。

 

魚のカルパッチョの作り方

 

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白身魚編(洋風)〜

白身の刺身

・パプリカ

・きゅうり

・大葉

・生姜

・レモン

・醤油

・オリーブオイル

・塩

・お好みでアボカド

①しょうがはすりおろしてね。

②大葉以外の野菜をサイコロ切りとみじん切りの間くらいの大きさに切る。大葉は千切りにする。そして大葉以外の野菜をボールに入れる。

白身の刺身は食べやすい形にスライスする。そして、別のボールに刺身を入れる。

③それぞれのボールに生姜を入れ、レモン・醤油・オリーブオイルを一周程度、回しかける。オリーブオイルは風味付けが目的なので少なめで大丈夫。魚の方は漬け気味にしたいので、醤油を多めにするといいかも。

④味見をして、お好みの味にする。

⑤盛り付けをして、上に大葉を飾る。

※あまり野菜の分量をきにしなくても、味がしっかりしていればおいしく食べれるので買い物が楽。大葉って一袋10枚で食べ切れんやろ!って感じで売ってますが、この料理は大葉も大事な役どころなので、全部使ってもいい。なので食品のロスも回避できる。

白身の刺身も角切りにすると、ボールを2個用意せず、1つのボールで味付けできるので洗い物が楽。でも、大きめの短冊で白身の刺身が手に入れれたらしっかり魚に味付けをするために、スライスして別のボールに入れた方がおいしく仕上がるかもしれません。

※このカルパッチョに合うお料理・・・パスタ(きのこのペペロンチーノ系)とか、ポトフと一緒に出してみてはいかがでしょうか。お肉のグリルももちろん合うよ。

 

〜まぐろ編(和風)〜

・まぐろ刺身

・山芋

・きゅうり

・大葉

・しょうが

・しょうゆ

・ごま油

・レモン

・あれば海苔

山芋は拍子木切りにして、あとは白身魚カルパッチョと同じ要領で作る。

※まぐろの山かけみたいに、山芋をすりおろしにする手間が省けて楽。

※ごま油も風味付け程度で大丈夫だと

思います。私はごま油好きなので多めにいれますが…。

※このカルパッチョに合うメニュー・・・和風でまぐろが漬けになっているので、ごはんだけでも大丈夫。あとは、野菜の味噌炒めやお肉の西京焼きのような味噌ベースのお料理でも合うのではないでしょうか。

 

私が思いついたというより、もともと、こちらのまぐろの和風カルパッチョみたいなものが笠原将弘さんの料理本に載っており(どの本に載っていたのかは忘れましたが…)、おいしかったので白身魚の方もアレンジしてみました。

料理美味しそうって言って頂いて、自分はあまり料理に頓着なく生きてきたので(きっとそこは自分的に評価してよ!ウッフンっていう感じではなかったんだと思う)、なんだか恥ずかしく、くすぐったい気持ちで聞いています。基本的に料理は、コントラストが大事だと思います…。献立決めにしても見栄えにしても、味のコントラスト色味のコントラストかなと思います。いつもご声援ありがとうございます。

最後にオススメの料理本のリンク貼っておきます。料理本は、その人と本の相性なので、気に入って頂けるか分かりませんが、ブログも書いたことだしついでに…。

 

やっぱり、和食かな (著)行正り香

私のお料理人生はここから始まったと言っても過言ではないくらい、何年もお世話になった本。和食における調味料の比率を明記してくれているので、見やすい本。調理方法もとても楽。行正り香のパスタ定食もおすすめ。

 

 30分で和定食 (著)笠原将弘

笠原将弘さんの本で、私的に一番実用性が高いと思った本。笠原さんは、キレのいい味付けで、口にした途端、他の料理家さんとは少し異なる、心地よい雰囲気を感じることができます。

 

土井家の「一生もん」2品献立 (著)土井善晴

これも高校生〜大学生の頃、ちょくちょく見て作っていた気がします。オーソドックスなお料理を丁寧に説明してくれていたから良かったのかな。

 

そうざいサラダ (著)ワタナベマキ

彩り良く、野菜が少し変わった方法で、おしゃれな料理を家でも食べたい方の本。お酒は飲めませんが、ワインとも合いそうです。

 

スパイス料理が、子どもの頃あまり外食で食べる機会がなかったので(というより当時そういうお店が少なかった)、「これが正解!」という自分の中の答えがないので、いつも自宅で作るとボンヤリした味になるので、スパイス料理を食べ歩きしてみて自分なりの見解を出してみたいです。(刺激物苦手なんだけど挑戦したい)。あとは、いつか魚のさばき方教室・フレンチのお教室にいってみたいです。

 

 

 

 

 

 

母親待望論

 

ある女性(Aさんとしておく)から会う度に「結婚はしないの?」と尋ねられる。どうやら彼女にとっては結婚出産が女性のアイデンティティの確立には不可欠なようだ。最初はお茶を濁していたが、毎回毎回その話題が出るのでこちらも素直に思ったことを吐露し疑問に思ったことを投げかけるようにしている。泣き寝入りしたり腹にためて一人でイライラするより、ハッキリとものを言い合える関係というのは案外心地よいものですよ。ちなみに私はこのAさんという女性のことが面倒見のよいバイタリティ溢れるおばあさんで大好きです。

「Aさんにとって子どもがいる女性といない女性の違いってどんな風に見えてるんですか?」と尋ねたところ、「子どもがいない女性はどこか冷たいように見える。」という答えが返ってきた。彼女が言うには、最後まで面倒を見なければいけない存在がいることにより、甲斐甲斐しさが育つと言う。

その話を聞いて、自分だけに当てはめると当たってるかもなぁと思った。私は犬を飼っているけれど同じ人間は育てたことがないし、「最初から最後まで目を離さず面倒を見る」ということは確かにしたことがないと思う。どこか他人は他人なのだからと割り切って都合よく突き放してしまう所があり、自分が冷たいと言われても仕方ないしそうなのかもな、と思う。でも自分以外の独身女性のことを考えてみると、そうでもないなと思ったりする。とても甲斐甲斐しく優しさ余って、結婚に結びつかない人もいるな、と思うのだ。

しかしこの話をぼんやり考えてみたところ、最終的に行き着いた答えはこどもを産んだことのある女性すなわち母親をやっている人に対して、この論理って一番キツくない?と思うようになった。母親は優しいっていう前提がそもそもキツくない?人間をお腹から出しただけなのにあなたは優しいんだっていう決めつけって、結構重くない?そう思われることが嬉しい人もいると思う。優しいお母さんだねとか、母性が備わっているんだねみたいに言われるのが嬉しく感じる人もいるとは思う。Aさんのように。

別に世の母親業をやっている人の味方をしたいから書いてるわけじゃなくて、自分の母親は「母親は優しい」というような母親待望論に悩んで罪悪感を抱えて来たタチなのかもしれないと最近思うんだよね。私の母親は、私と性格が似ていると思う。自分のやりたいことを思い切りやりたい。言うならば極めて個人主義的で仕事がしたいタイプだったんだと思う。

じゃなんで産んだんだ!こんなに邪険にされるなら仕事だけすればよかったのに!もっと考えて行動して欲しかった!お母さんにずっと一緒にいてほしかった!家庭的な体験をもっとしたかった!お金でばかり解決して!というような寂寥感で何年もひねくれていたのは事実である。でもきっと自分の母親も、世間の押し付ける母親像とか子どもへのケアの体現についてずっと悩んで来た方だと思うんだよね。こと私が病気になってからは。

みんなそれぞれの理想の母親像ってあると思う。その母親像を基にして子どもを育てている人もいると思う。だって見本があってないようなものだもの。でも「母親だったら〜〜する」みたいな思想や常識って人それぞれ違うし、違って当たり前なのに、その捉われた思想が母親同士の戦争を時に起こしているような気もするんだよね。

しばらく自分が「母親でない」ことに対して罪悪感とか行き場のなさを抱えていたけれど、母親になってもそれぞれが自分の経験したことを糧にしていて、自分自身の想いや考えしか子育てって結局当てにならないんだよみたいなことを友だちが言っていて、女のグループ分けってあるようでないものなんだなと思ってからは、とても気が楽になった。けれど、母親に関しては前述のような思いを自分がずっと抱えていて、どこか足りなかった何かが欠けたような気持ちを今も持っている。そして今、自分自身が他所の子どもを見る時にどう接すればいいのかイマイチ分からず苦労しているのも事実。だって笑顔引きつってると思うもん。かくいう私が母親待望論のようなものに一番捉われてきたのかもしれないねー。

でも正直、家庭環境ってなるようにしかならないし、生きてきた道しかないんだよ。それ以上でもなくてそれ以下でもないんだよなって思う。お母さんと子どもってセットで一体感を感じる部分もあるし、それを私はずっと求めていたんだろうけれど、結局は他人なのも忘れてはいけないように思う。一体感を感じる部分、別々の個体であるという両方の瞬間体験がないとお互いがしんどいんじゃね?的な。

理想のお母さんなんて、はっきり言って「ない」と私は思う。子どもが影響を受けるものは、お母さんや家庭環境からだけではない。意外な場所や人から影響を受けることがある。そりゃ家族から影響を受けたものが自分の生きる信条になっているのは一番幸せなことなのかもしれないし、羨ましく思うけどね。でも何が自分の人生に影響をもたらしてくれるのかは予測不能で、わからなくて、だから「成長」っておもしろい部分があるんじゃないのかな。

今、家が嫌で辛い子ども、子育てが辛い人、そんなに自分を責めないで欲しいなと思う。自分だけが自分のことを抱え込む必要はないんだよ、きっと。

もし今嫌でたまらなくて物理的には距離が置けなくても、心理的な決別は時が来たらできると思う。別に親子だけが絶対の形だというように捉われなくていいんだよ、って思う。本音を言うならば親子関係は絶対であって欲しかった。でもそうじゃなかった。それを直視するのは寂しいのも知ってるよ。

私は未だに悩んでいる部分があるし、なんだか人と人との関わりがむずがゆくて疲れてしまうことばかりだ。昔の自分に補填してあげたいことがたくさんある。でももうそれは終わったこと。私の母親も今、子育ての本をたくさん買い漁り読んでいる。だから、間接的でも、子どもとお母さんのお手伝いができたらいいなと思って今、少しずつではありますが動いています。それで自分もみんなもなんかこの感じいいな〜って思う瞬間が増えたらなと思う。と言っても、大したことでは全然ないけどね。かっこいい志を持っているわけでもなく。持続可能な活動かも謎で、計画で終わる可能性もあるけどまた何かご報告できることがあれば聞いてやってください。

祖母

 

3月31日、祖母が亡くなりました。

 

ここ数年、小さい頃のことを思い出すのが嫌でしたし、自分の嫌な所は彼女からきっちり受け継いでいるので、自分を映す鏡のようで、祖母とは極力会わないようにしていました。正直憎んでいたというか恨んだりしていました。なので、亡くなっても物思いにふけるようなことはないと思っていました。

 

でもいざこうなってみますと、私が一本の木とするならば、年輪の一層として、祖母と過ごした時間は私の体内に張り付いており、それは剥がすことができず、忘れることも抹消することもできず、人間の深い業のようなものを感じました。

 

あれだけ恨んだり汚い感情でいっぱいだったのに、「死」という行為は何かを洗ってくれる力、そんな役割があるのかもしれません。

 

祖母は元気な頃、よく「月末までに落とし前をつけたる」と言っていました。その意味は完全には理解できませんでしたが、いく先々で、問題を作ってくるのでそのことに対して息巻いていたのでしょう。とにかくいつも「新しい自分」でありたい人でした。

 

「月末に落とし前をつける」ように3月31日、年度末の一番最後の日、祖母は亡くなりました。

 

安らかに眠れなんて言いません。天国というものが存在するのならば、彼女はまた方々で騒ぎ回るのに決まっているのだから。墓から出てきたら苦笑しますが…それもやりかねないような豪快な人でした。

 

このことを文にするのかは、迷いましたが、祖母は私の描いた絵や文を喜ぶ一人目のファンでしたので、書くことにしました。私の文化的嗜好の派手さは、彼女から受け継いでいるところもきっと、あるのでしょう。

 

もうあなたが運転するカローラには乗れないんだね。

こんにゃく入りのカレー忘れません。

 

今までありがとう。さようなら。

 

 

 

 

 

 

続けたいけど、続けれないあなたへ

 

 

よくTwitterで「嫌なことがあったら逃げたり辞めたりすることが大事って言うけれど、やはり何かをやり続けることが技術や実力の習得になり、最強である」みたいな趣旨のツイートが回ってきて、時にそれがバズったりしているんですが、今日はそのことについて私の見解を述べたいと思います。


いや~そういうツイートって傷つくよね。正直。私みたいな何も続いてこなかった人間からすると。お前はダメな人間って言われている気がして。

で、その前述したツイートに、私と同じような気持ちの人がいて、「傷つきました。」とか「自分の根性とかそういう原因ではなく、病むを得ない事情で(なにかを)辞めないといけなかった私の気持ちがお前に分かるもんか!」とか「続けれるものが人生にあるのは、たまたま恵まれていたからだ!」とか、つらつらとお怒りのリプが続いているんですよね。そう、言いたくなる気持ちは分かる。


でも、やっぱり続けることが一番大事、だとも思うんです。特に、私のような反射神経が鈍い凡人には。続けた人が持っている技能というのは素晴らしいと思う。だから続けることは大事。でもでも、多分、続けることが大事、なんてほとんどの人がわかっていると思う。バカじゃないんだから。だから、あのようなツイートが回ってきた時、「わかっているけれど、続けてこれなかった人達」が反発するんだと思う。みんな、何かを好きになって、何かを始める時ってそれなりの気概で取り組んでいるだろうし、世の中の「辞める・諦める」人達がそう軒並み、根性がないとも思わないです。

 


なにが言いたいかっていうと、何かを続けたいのであれば、何かを続けるためのインフラを考えて整える、これが一番必要なのであって、そしてこれが案外こういう話題を語る上で一番言及されていないことなのでは、私は思います。

根性も、意気込みもある、何かを続けたい気持ちもあるーーーーそれで続けれないんだったら、それは続けるための環境作りが整ってないとしか考えようがないじゃないですか。


続けるための環境作りっていうのは、自分が続けやすい状況を作るってことなんですが(当たり前だ)、具体的に言うと、

 


・スケジュール管理

続けたいと思っていることが、自分の生活の中でどれくらい優先順位が高いか、を考える。他の生きている中で出てくる用事やスケジュールはその優先順位に従って組む。体が空いているから、元気だからといってやみくもにスケジュールを組まない。このスケジュールがやみくもな人は、いつか体か心を病みます。病まなくて自分が元気だとしても、周りの人間を振り回すことがあり、迷惑をかけます。自分の続けやすいリズムっていうのが必ずあるので、それを試行錯誤しながら、ゆっくり冒険する気持ちで取り組む。


・自分がどういうことにストレスを感じやすいかを考える

最初は意気込んでいても、何かをし続けていると絶対に嫌なことが起こると思う。それについて、何が嫌だったのかを考える。その原因を辿っていけば、自分の本質的なものが見えてきますし、それを回避したりすることもできるし、これから同じようなことが起こった時にどう対応しようかも考えることができる。


・無視する

前項と反しますが、嫌なこと、上達しないことがあっても、その事実自体を無視する。この無視は、何かを続けるにおいて一番の武器になる気がします。この武器を多用し続けると、ずっと頭がひとつ抜けることができず、ただただ経験年数が長い、中身のない人間になる可能性もありますが、随所随所で無視が上手い人間になる。無視するタイミングの見極めが上手い人というか。これは大事なような気がします。例えば、私でいうと、洋裁をしていますが、苦手なことがあります。作った服に、雑な箇所があります。でも、苦手なところは放っておいて完成させることを優先することがあります。


・あまり思い入れを持たない

思い入れが大きいほど、失敗した時に失望する加減が大きくなるので、「自分はこれに人生をかけている!」とか思わないほうがいい場合もあります。やりたい、やりたくないっていう気持ちは長く続けば続くほど、さほど重要ではない気がします。私は服を作っていますが、さして服で成功したいとか、服作りが天職みたいに思ったことがありません。なんなら、作るなんて面倒くさいし、買う方が圧倒的に好きですしね。服の専門学校に行ったのは、単なる暇つぶしみたいなもんでした。

 

・とりあえず悩んでわからなくなったら「臨機応変」という四字熟語を頭に思い浮かべる

 

自分の続けるためのインフラ整備、環境作りって、他にもいっぱい要素があって、なんなら自分の生活を見直すと無限にあると思います。上記のことでも、無理にスケジュールをこなさないといけない状況もありますし、これが失敗すると人生が終わるっていうくらいの覚悟を持たなければいけない時もあると思います。


続けようという気持ちは誰にでもあると思う。ただ、続けるにはどうしたらいいのか、と考えている人は余りにも少ない。気がする。続けるための環境作りって、要は自分を甘やかす環境作りだと思います。何かを続けている人って自分を甘やかす方法を分かっている人なんだと思います。自分に対する飴と鞭が上手いんだと思います。もしかしたら、続けれなくて悩んでいる人は飴ばっかり舐めているか、鞭ばかり打っているか、どちらかに偏っているのかもしれません。

でも続けれたからって人生幸せに生きれるかっていうとそうでもないし。なんなら、私の周りに一人、職場を転々としていて、周りのみんなに持ち前の愛嬌で好かれていて、彷徨える猫みたいに暮らしている女性がいます。その人は私にとっては、尊敬に値する人です。

んでもって、続けれることがあるのははたまたま恵まれているからっていうご意見も一理あると思います。病気、経済状況、事故、家庭環境の変化、色々なことがありますからね。それで辞めてしまった人達を根性がないという目で見る人は、人としてアレなんで無視しよう。ダイレクトに言うと、そいつは人生の複雑さをわかってない傲慢な馬鹿ということです。んで続けてきた人達って、やっぱそれなりの技能・年収があるんで偉そうに見えるんですよね。続けれてこなかった人達からすると。こちらは成功体験も少ないですしね。気後れしちゃいますよね。

 

まぁここまで書いてみたけど、今現在の私は、どうでもいいや。続けるとか続けないとか。昔は気になってたけど。そこそこに穏やかに生きれてたらいいわ。てか、生きるの続けてるだけで、えらくない?この続ける続けないの論争どうでもいいや、しょーもなさすぎ。こんなしょーもないツイートを真に受けて傷ついてほしくないから今回書いてみました。


頭がぼーっとして仕事にならないので、今日は寝ます…。