デブを改めたい。

双極性障害Ⅱ型と診断され7年。身も心もスッキリしたい。

母親待望論

 

ある女性(Aさんとしておく)から会う度に「結婚はしないの?」と尋ねられる。どうやら彼女にとっては結婚出産が女性のアイデンティティの確立には不可欠なようだ。最初はお茶を濁していたが、毎回毎回その話題が出るのでこちらも素直に思ったことを吐露し疑問に思ったことを投げかけるようにしている。泣き寝入りしたり腹にためて一人でイライラするより、ハッキリとものを言い合える関係というのは案外心地よいものですよ。ちなみに私はこのAさんという女性のことが面倒見のよいバイタリティ溢れるおばあさんで大好きです。

「Aさんにとって子どもがいる女性といない女性の違いってどんな風に見えてるんですか?」と尋ねたところ、「子どもがいない女性はどこか冷たいように見える。」という答えが返ってきた。彼女が言うには、最後まで面倒を見なければいけない存在がいることにより、甲斐甲斐しさが育つと言う。

その話を聞いて、自分だけに当てはめると当たってるかもなぁと思った。私は犬を飼っているけれど同じ人間は育てたことがないし、「最初から最後まで目を離さず面倒を見る」ということは確かにしたことがないと思う。どこか他人は他人なのだからと割り切って都合よく突き放してしまう所があり、自分が冷たいと言われても仕方ないしそうなのかもな、と思う。でも自分以外の独身女性のことを考えてみると、そうでもないなと思ったりする。とても甲斐甲斐しく優しさ余って、結婚に結びつかない人もいるな、と思うのだ。

しかしこの話をぼんやり考えてみたところ、最終的に行き着いた答えはこどもを産んだことのある女性すなわち母親をやっている人に対して、この論理って一番キツくない?と思うようになった。母親は優しいっていう前提がそもそもキツくない?人間をお腹から出しただけなのにあなたは優しいんだっていう決めつけって、結構重くない?そう思われることが嬉しい人もいると思う。優しいお母さんだねとか、母性が備わっているんだねみたいに言われるのが嬉しく感じる人もいるとは思う。Aさんのように。

別に世の母親業をやっている人の味方をしたいから書いてるわけじゃなくて、自分の母親は「母親は優しい」というような母親待望論に悩んで罪悪感を抱えて来たタチなのかもしれないと最近思うんだよね。私の母親は、私と性格が似ていると思う。自分のやりたいことを思い切りやりたい。言うならば極めて個人主義的で仕事がしたいタイプだったんだと思う。

じゃなんで産んだんだ!こんなに邪険にされるなら仕事だけすればよかったのに!もっと考えて行動して欲しかった!お母さんにずっと一緒にいてほしかった!家庭的な体験をもっとしたかった!お金でばかり解決して!というような寂寥感で何年もひねくれていたのは事実である。でもきっと自分の母親も、世間の押し付ける母親像とか子どもへのケアの体現についてずっと悩んで来た方だと思うんだよね。こと私が病気になってからは。

みんなそれぞれの理想の母親像ってあると思う。その母親像を基にして子どもを育てている人もいると思う。だって見本があってないようなものだもの。でも「母親だったら〜〜する」みたいな思想や常識って人それぞれ違うし、違って当たり前なのに、その捉われた思想が母親同士の戦争を時に起こしているような気もするんだよね。

しばらく自分が「母親でない」ことに対して罪悪感とか行き場のなさを抱えていたけれど、母親になってもそれぞれが自分の経験したことを糧にしていて、自分自身の想いや考えしか子育てって結局当てにならないんだよみたいなことを友だちが言っていて、女のグループ分けってあるようでないものなんだなと思ってからは、とても気が楽になった。けれど、母親に関しては前述のような思いを自分がずっと抱えていて、どこか足りなかった何かが欠けたような気持ちを今も持っている。そして今、自分自身が他所の子どもを見る時にどう接すればいいのかイマイチ分からず苦労しているのも事実。だって笑顔引きつってると思うもん。かくいう私が母親待望論のようなものに一番捉われてきたのかもしれないねー。

でも正直、家庭環境ってなるようにしかならないし、生きてきた道しかないんだよ。それ以上でもなくてそれ以下でもないんだよなって思う。お母さんと子どもってセットで一体感を感じる部分もあるし、それを私はずっと求めていたんだろうけれど、結局は他人なのも忘れてはいけないように思う。一体感を感じる部分、別々の個体であるという両方の瞬間体験がないとお互いがしんどいんじゃね?的な。

理想のお母さんなんて、はっきり言って「ない」と私は思う。子どもが影響を受けるものは、お母さんや家庭環境からだけではない。意外な場所や人から影響を受けることがある。そりゃ家族から影響を受けたものが自分の生きる信条になっているのは一番幸せなことなのかもしれないし、羨ましく思うけどね。でも何が自分の人生に影響をもたらしてくれるのかは予測不能で、わからなくて、だから「成長」っておもしろい部分があるんじゃないのかな。

今、家が嫌で辛い子ども、子育てが辛い人、そんなに自分を責めないで欲しいなと思う。自分だけが自分のことを抱え込む必要はないんだよ、きっと。

もし今嫌でたまらなくて物理的には距離が置けなくても、心理的な決別は時が来たらできると思う。別に親子だけが絶対の形だというように捉われなくていいんだよ、って思う。本音を言うならば親子関係は絶対であって欲しかった。でもそうじゃなかった。それを直視するのは寂しいのも知ってるよ。

私は未だに悩んでいる部分があるし、なんだか人と人との関わりがむずがゆくて疲れてしまうことばかりだ。昔の自分に補填してあげたいことがたくさんある。でももうそれは終わったこと。私の母親も今、子育ての本をたくさん買い漁り読んでいる。だから、間接的でも、子どもとお母さんのお手伝いができたらいいなと思って今、少しずつではありますが動いています。それで自分もみんなもなんかこの感じいいな〜って思う瞬間が増えたらなと思う。と言っても、大したことでは全然ないけどね。かっこいい志を持っているわけでもなく。持続可能な活動かも謎で、計画で終わる可能性もあるけどまた何かご報告できることがあれば聞いてやってください。