デブを改めたい。

双極性障害Ⅱ型と診断され7年。身も心もスッキリしたい。

普段と変わらない日記

 


 

双極性障害ってつくづく嫌な病気だな、と思う。嫌な病気、というより、タチの悪い病気と言った方がいいだろうか。

日々生活をする上で、「仕事をする」ということを頭に置いて、日々の体調管理や与えてもらった仕事は一生懸命こなしている(つもり)なのだが、どうもいい方向に事が進んでいない気がする。

語弊はあるが、負けの状況を自分で作っているような気がしてならないのだ。「貧すれば鈍する」という言葉があるが、負けの姿勢で挑んだ戦はドミノ倒しのように負けていく。逆に勝ちの姿勢でいるときの人間はどんどん勝ち進んでいくし、どんどん回収できる状況にある気がする。

とにかく自分の状況がうまく回っていないことは分かる。簡単に言えば、病気のせいだ。

自分がなんとかメンテナンスしても、大きな刺激やショックがあると、ものの見事に体調を崩し、共倒れのようにメンタルもやられていく。昏睡状態のように眠り復活したかと思えば、次は一睡もできず目が冴えるだけで、活動できず、なんとか生活を回すものの今度は風邪をひく。もういい加減にしてくれよ、と誰に当たることもできず、自分に当たる。当たっても責めても仕方ないのに、やり切れなさが溜まっていく。

多分、風邪をひいたとしても、眠れなくても、その現象自体は一つ一つは、大したことではないと思う。が、先述したように、負けの状況、貧しい状況で、負荷がかかると人はどんどん物理的にも金銭的にも、精神的にも荒んでいく。

なんとなく思うが、多分「仕事をする」というより「体力をつける」作業に専念した方がいいような気が、最近している。

自分を客観的に採点した場合、車に例えるならば圧倒的にガソリンがないのだと思う。根気もある、努力する気がある、頭も良く(どちらかと言えばです)、車のスペック面は充実していると思う。車を運転しても止まるのは、明らかにガソリンが足りないからだ。

しかも、ガソリンがないのに、わざわざ難しい道を走っている気がする。平らな道を最初は走ればいいのに、山の中にある岩だらけのような道を走っている気がする。もともと複雑で難しいことが好きな方だが、ちゃんと時に応じて簡単なことをチョイスする勇気は、絶対に必要だと思う。簡単なことをチョイスすることは、負けでもないし、諦めでもない。知恵だと思う。

体力をつけるために、歩いたり自律神経を整えることが至上命題だ。いつまで、こんなことで悩むのだろう。33歳になって、一体、私は何をしているのだろうと思う。が、もう年齢がどうとかそういう問題じゃないんだよ。年齢で諦めるなら、とうに諦めている。どうしても、私の中で譲れない問題なんだよ。譲れない問題は、大抵、偉くなんかはなく、そうじて人間のエゴだ。

なぜ自分が働くことに拘るかは分からない。どちらかと言えば、労働者の家庭に生まれ育ち、個人的に恨みもあるし、働くことが時として、人を傷つけ、人をいかに冷たく傲慢にさせるかも知っている。

客観的に見て、人が拘ってることの多くは、人から見たら大したことではなく、執着をなくせば、どんなことでも、解決することが多いというのは知っている。冷たい言い方をするが、それが病気であってもだ。受け入れ、人と違ってもあるままの日々を過ごすことは、むしろ真っ当なことだと思う。しかし、それを受け入れた上でも、どうしても譲れないものがあるというのは、矛盾しているようで、きっと身を結ばなくても、そこに「なにかがある」のだと思う。

20代の頃に、大学に行けなくなってから「普通の人は◯◯してる!」と泣き叫び悔しがるたびに、「普通なんてない」と母親や医師に、言われてきた。「普通は」「常識では」という言葉を安易に使う人も、短絡的すぎてどうかと思うが、私はある程度の「普通」ってあると思う。少なくとも、日々自分の生活の中で障害や身の不安を感じ、将来のことを考えると死んでしまいたいとか、どうせ自分は地獄に落ちるとか、ずっと悲観的になるのは「普通ではない」と思う。これが「普通だ」と言われると、途方に暮れてしまう。が、それを現実として食いしばってでも、生きていくしかないのだが。

が、33歳の人間達の話題にあがりがちな「会社で働いている」とか「結婚している」とかそういう「普通」に自分を照らし合わせるは、絶対に違っていて、自分の中で必要なことをやってあげるのが一番いいのだろう。子どもの発育状態に合わせて、まず実現可能な目標を考えるのが基本的な教育のセオリーだと思うが、それを自分に照らし合わせればいいだけだ。

かと言って、同世代人口の大多数がやっていることができず、自分は簡単なことから始めなさいと、自分に優しく言い聞かせても、プライドなのかなんなのか、「こんな初歩的なことからなのか…」と落胆する自分もおり、普段自分が怒りやすいのはこのためだと思う。どうして人一倍、やる気のある自分が、どうしてこんなにやれば色々できるのに、どうしてこんなことになった、いわゆる「こんなはずじゃなかった」という思いが、自分を支配しており、普段の怒りの燃料になってるのは確実にある。金持ち喧嘩せず、というが、怒って喧嘩越しになり、また貧すれば鈍する状況を自分で作っている。

本当にどうしてこんなことになったんだろうと思う。それなりに自分が置かれている状況で、楽する方法も知っている。迎合する道があるのも知っている。でも、納得できないのである。病気だからって弱いふりをして、人にかくまってもらうのはごめんだし、自分のある種、恵まれた状況を逆手に、中身のない虚勢を張るなんてまっぴらである。自己実現なんて、馬鹿も甚だしい四字熟語だと思うが、責めて自分の足で、自分の性質とも言える病気や運命に侵食されすぎず、自分の人生を歩いている感覚が欲しいのである。

小さい頃、うつくしいものを見、面白い漫画を読んで、出自や学歴などに関係なく、良いものが生まれ評価され、ネガティヴな事実でさえとっぱらってしまえる世界がとてつもなくおもしろく、素晴らしいと思った。自分がそんな世界で何かできるとは全く思わないけれど、「素の自分で勝負したい」。いらないものをとっぱらった自分で、人生を歩きたい。それは変わらずに自分の中で、一貫してあるのだと思う。だから拘るのだ。

「こんなはずじゃない」と思った時期から、時間が経った。その間にできないことばかりが目立って、人の苦しみばかり目がつくようになった。苦しみの想像力は、人を多層的な思考を持たせ賢くさせるが、どんどんこの行動でしか物の評価を測れない世界では損をしてしまう。その上、更に「素の自分で勝負する」のはめっぽうむずかしい。だが、酸いも怒りも苦しみもある程度、知った上で、それを自分の中でどう回収し、どう進めていけばいいかもある程度は分かってきた。勘として。一歩踏み違えば、不安の沼にまだ引き込まれるが、なんとかうまい方向に人生を進めていきたい。