デブを改めたい。

双極性障害Ⅱ型と診断され7年。身も心もスッキリしたい。

運命の一枚を探せ!〜2018年輝くレコード大賞〜

 

 

 

 

例年のごとく、彼氏が紅白実況に精を出しており暇なので、突然ですが、今年聴いたものでいいなと思ったものを紹介します。音楽、アートに関しては疎いほうですし、別にこれと言った解説ができるほどの素地もないので、完全に感覚的に良いと思ったものを挙げます。

 

 

 

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以下、(アーティスト名/タイトル名/リリース年)とさせて頂きます。

 

Fabio Caramuru/Piano Solo/2000

    なんか、中谷美紀が聴いてそう、好きそう。

Rhye/Blood/2018

    聴いてもらったら納得して頂けるだろうが、この声が男性ということにまず驚いた。あとこの前行った騒がしいカフェで流れていたが、全然店の雰囲気と合ってなくてワロタ。

Blood Orange/Negro Swan/2018

   Blood Orangeの三枚目のアルバム。一作目から聴いており、二作目はなんとなくモヤモヤが残っていたが、三作目の今作が間違いなく一番完成度高い。一枚目の感じに戻りつつも、さらにアップデートして来た感。

藤井隆/DJ MIXDelicacy/2016

    藤井のこれまでの曲をリミックスしたアルバム。とにかく藤井の歌う曲はどれも素晴らしい。ベストオブベストな歌が勢ぞろいの上に、小気味よくリミックスしてくれているものだから一気に聞ける。ラストのナンダカンダで景色が変わる。とにかく今年は、このアルバムを一番聞いた。

MOCKY/Key Change/2015

    どこがいいかうまく説明できないけど、とにかくいいアルバム。

Teyana Taylor/K.T.S.E/2018

    お騒がせセレブの印象だったカニエを舐めていたし馬鹿にしていたが、やっぱなにやらせても敏腕だし、この人は骨の髄までオシャレな人なんだと思った。(このアルバムは、カニエプロデュース)

星野源/イデア/2018

    星野源の手駒を出せるだけ出した最高傑作、最終傑作(造語)という感じ。正直、やり尽くした感、ピークを迎えてしまった感あり。これからが大変そうで(ネタに苦しみそうで)ファンとしては心配。

Too Ugly/Verus Amour/2018

    9枚目がとりたてて良いものが思いつかなかったのでこれにした。別にdvsnmorning after(2017)でもよかった。

Bonobo/The North Borders Tour.-Live./2014

    眠れない時は、ブルートゥースのイヤホンでこれを聞く。なんか高揚しつつもリラックス状態になり、ちょっと眠れる。静かな落ち着いたクラブにいるような感覚になる。ある夜、いつものごとく眠れない状態になり、スピーカーでこれを聞いていたら、隣にいた彼氏がすっ飛んできて「ご近所迷惑よ!」と怒られた。

 

 

 

~番外編~けみお/どこまでいっても渋谷は日本の東京/2018

 

youtu.be

とにかくけみおに救われた1年だった。適当な感じだけど、全然本当は適当じゃない思慮深い好青年だってこと、我々視聴者は知ってますよ。音楽もよく聴いてるみたいだし、本人も切望しているラジオ番組を来年はやってほしい。我々はけみおにコンテンツなど期待していない、トークに期待している。

 

 

 

~写真集編~金山貴宏/While Leaves Are Falling…/2016

 

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今年は、マルジェラの写真集なども買ってみたけれど、正直良さは感じなかった。

というかあんまり理解が出来なかった。本作は統合失調症の母を撮り続けた作品のような、ドキュメンタリーのような。実直に、淡々と撮っているのも感じながらも、ちゃんと美しさ、浄化される部分もあり、良い作品だった。

 

 

~本~タモリ/戸部田誠(てれびのスキマ)/2014

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本もそこそこ今年前半は読んでいたような気はするが、昨年読んだタモリ学を超えるものはなかった。もし友人で気持ちが落ち込んでいる子がいたら、高確率でこの本を紹介すると思う。

 

散々、好きだと思ったものを挙げていったが、あんまりどこが良いのかはちゃんと書けなかった気がする。自分の好きなものに共通する点を挙げてみると、繊細なもの緻密なもの、造る過程や手順がきっちり段階が踏まれているもの、素直で実直なもの、持病の双極性障害に悪影響を及ばさないテンションがあがらず冷静で温度が上がり過ぎないものを無意識のうちに手にとっている気がする。

 

今年も大変お世話になりました。私のグダグダにお付き合いくださり、ありがとうございました。来年も間違いなく、くだを巻きます。どうぞよろしくお願い致します。

 

 

 

 

 

どうすればいいですか

 

 

私はよく怒るので怒らないためにはどうすればいいかなと、ここ最近少し考えてみましたが、怒りの矛先が「人への攻撃」に向かないだけまだマシかなという結論に至りました。怒らないのが一番いいんですけども。

 


大体人を怒らせてるような内容は大体みんなも同じように不快になるので、自分の怒りを第三者に訴えるとき、「自分を怒らせてる人のレベルまで下げない」ということが大事なんだと思います。怒らせてる人のレベルまで自分が下っていってしまうと大体周りの人も結果的に不快させることになるので。それが怒るときに気をつけるポイントなんだと思います。

 


なぜ自分は怒りやすいのか。それはストレスと周囲への恐怖心、被害妄想から来ると思うのです。周りが怖い人というのは結局自分に自信がないので、怒ることで自分を守るという戦法を使いがちになる気がします。今日はなぜ自分が怒るのか、その理由をメモしておきたいと思います。

 


怒るというのは、相手への誤解から生まれることもたくさんあるのでこのメモ自体、不快にさせると思うので、読み進められる方はそこは鵜呑みにせず私へ半信半疑の思いを持って読み進めてほしい。

 


(1)常時持っているストレス

一つのガスコンロがあったとする。ガスコンロはネジを開けると強火になり閉めると弱火になる。人はガスコンロを調節することが出来る。火が強すぎると弱火にする、火事になる前に火を止める。それを無意識的に調節していると思う。が、私にはガスコンロのネジが付いておらず、気を抜いてしまうとすぐに強火になりやがて火事になり、ガスは使い果たされ再起不能に近くなる。コンロを修理しガスを注入するのに時間がかかる。修理される度にコンロ自体も老朽化していく。ということが頻繁に起こるので、このガスコンロを常に弱火に保つため、自分というガスコンロを常に監視しとく必要がある(=やる気を出さない、テンションを上げない)。基本的に私はやる気があるタイプだし、やりたくないことにやる気を出すなと言われたらそりゃ願ってもないと喜ぶ人もいるかもしれないが、楽しいこと・やりたい事にもやる気を出すなと言われたら困るのではないでしょうか。とにかく自分の行動の一つ一つに「やる気が出過ぎていないか」ともう一人の自分が24時間体制で鞭を持って見回りしているので、ストレスは溜まる。が、それをしないとすぐガスコンロは強火になり、火事を起こすので自分の監視体制を外すという選択肢もなく、自分のやってることが正解なのかやりすぎてないかと常に自分に対して半信半疑の気持ちを抱いているので、そりゃ自分を認めてないことに等しい。ゆえに自然とストレスは溜まる。気が狂いそうになる。

 


(2)対人関係のストレス

何が普通かなんて基準はないし、私自身が見た普通なので、話半分に聞いてほしいが、「普通」を装うのにやはり必要以上に力を使っている感覚はある。普通の生活なんてないのかもしれないけど、立って生活をすることがしんどい時がある。フラフラしたり電池が切れたように眠り続けたり吐いたりするのが日常茶飯事ではある。

自分的には不便な生活をしているとは思うが、私は「自分だけが辛く、自分さえ良ければいい」という方向にはいかなかった。そういう人もいるし、それはそれである種の防衛反応だと思うのでそれも否定はしない。しかし「自分が出来ないことが多い」「生活が不便に感じることが多い」ということを踏まえて、「(他)人も辛い思いをすることがあり、自分とは違うかもしれないけど出来ないことに悩むことがある」という風に考えるようにはなった。なので、自分の気を抜いて話したことが、他人のしんどさの核を突いてしまって傷つけてしまったらどうしようと、妙に気を遣いすぎることがある。(後述する(4)のようなことがあったので。)人と話すのに気を遣い過ぎて頭が爆発しそうになるときがある。そしてたまにその気の使い方が間違ってキツイ言い方をされたり、気遣いを無下にされるような行動を取られると、ひどく落ち込んでそれが怒りに変わることがある。が、人を傷つけてしまったり自分が傷つかないこともどんなに細心の注意を払ったとしても絶対になくならないことは分かっているので、仕方がないが、どうもピュアな私はその事実にも気を病んでしまうことがある。

 


(3)とにかく自分に自信がない

ここには何回も書いているが高校卒業してから、大学もやめてしまったし、バイトも続いたこともないし、無論就職もしたことがない。結婚もやめてしまった。自分に人生の変数を増やすと、ガスコンロの調節が複雑になるのでなるべく変数を増やさないようにしようと、ある時から決めた。しかしなんにも完遂してこなかった自分に自信がなく、完遂できなかったことも自分の中では納得した理由はあるにはあるので自分に自信を持てばいいものの、とにかく人との世間話で出てくる学歴・仕事・結婚・出産の話で最近は非常に落ち込みおっくうになることが多い。相手はそんなつもりは一切ないのに、できなかった自分を思い出してみじめになる。例えば受験の話になると大学に落ちた自分を思い出すし、正直、大学受験からやり直して自分の名誉を挽回すればいいのか、とさえ思うほどである。世間話においても、「仕事をしているのが普通」「長年付き合った恋人と結婚するのが普通」という常識が根底に流れており、その普通に合わせて話するのが辛い。どこか出かけても「今日はお仕事お休みですか?」と挨拶のように尋ねられることが多々あり、「えへへ、まぁそんなものです」とは流している。流すしかない。しかし世間に対して嘘の笑いでごまかす自分が、自分自身をも嘘の笑いで流し、無下にしているような気分になり、虚しくなる。世間の一般的な感覚を恨んでるのではなく、それを出来なかった自分を結局は恨んでいるのであり、周りは何も悪くない。何も完遂出来ていない自分を一番嫌っているのは、結局は自分なのである。

自分を認めてあげるのには、自己肯定感を高める作業が必要になってくるのであろうが、学歴も仕事も社会的な役割がなに一つない状態から自己肯定感を育むのは結構、難しい。

ということで何か自信を取り戻す必要性を感じているため、自分なりにもこれからの人生をどうしていこうかは真剣に考えてはいるものの、このガスコンロを調節している間に体調を崩すことが多く、なかなか人生を進めていくことが頓挫になってしまい、さらに凹むという次第である。ゆえに「何もしてない人」と思われるのが怖く、人付き合いにおいて抑圧した自分を感じるのは否定できない。

 


(4)実際にひどい人がいたり偏見があった

体調が悪くて予定をキャンセルしたら「あなたは私の時間を無駄にしている」と長文のメールを送ってくる人がいたり、とあるシングルマザーから「あなたは親の脛をかじって生活をかけて働く必要がなく楽をしている」とこれまた長文のメールが来たり、障がい者手帳を申請するかもしれないと言ったら「交通費とか援助してもらえるからラッキーだね」とか言ってくる人が実際にいた。自分自身が体の苦痛と戦っているのに、こんな暴言を吐かれるこちらの身になってくれよ。まあ世の中にはひどいことを言ってるつもりがなくても、人の心に深く傷を残す人がおり、思い出すたびに私の怒りを掻き立てるのも事実である。

 


長く書いたけど、とにかく今現在、(1)で述べたガスコンロの調節が大分とキツく、私の心を退廃的というか狂気的な気分にしている。それゆえストレスが溜まると、火に油をそそぐように、怒りが燃えたぎるという形になる。正直コンロを調節してもしても、光の見えない生活に疲れてしまった。でもこの調節も板についてくると、きっと平常心でいれる時間が長くなってくると思うので、今まで完遂できなくて悩んでたことも一つ一つ完遂できるようになるだろうし、まあ、疲れるけれど、生きている限りは諦めないでやり続けようとは思う次第ではある。

もう全てが手遅れのような気もするが。


心穏やかに暮らしたい。

 

 

 

 

 

 

体型に絶対的な美的基準はない

 


肌見せの季節ですね!

 


この前、フィルムカメラを現像したらキャミソールを着た白いブタが写っていたので痩せようと思いました。

 

摂食障害の時に、外来やカウンセリングで「痩せる」を「引き締まる」、「太る」を「ふくよか」という言葉に置き換えられるのが嫌でたまらなかった。「バランス良く食べましょう」という栄養士の言葉に身の毛がよだった。私にとっては「痩せる」は「最高」で、「太る」は「デブ」であった。キレイゴトを言ってんじゃねぇよ、もっとダイレクトに話してよとイライラした。あの頃、嫌でたまらなかった気持ち、抵抗したかった気持ち。診てくれた先生方にやっぱり10年経ってもたまに思い出しては反抗したくなる。

 

今、痩せたいという気持ちを否定されたような気分になって嫌な気持ちになってる子に援護射撃を、まずは打つとする。

 

太りすぎると着る服がなくて困る。

この国の洋服、サイズが本当に限定されている。痩せてる時は大抵の服はかわいく着こなせる。いくらでもある。そりゃ、痩せてる方がカッコイイと我々が思うのは仕方ない。当然のなりゆきである。

 

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日本は太っている人のためのセクシーな服・かっこいいモードな服がまず、ない。私が見た限り、数が少ない。百貨店の大きなサイズコーナーも参観日みたいな服ばかりだし、「ふくよかな人のためのかわいい服」と言えばハリセンボンの春菜さんや森三中の村上さんがよく着ているポップな服に偏っている気がする。まず、太っている女芸人はいても、太っている綺麗めな清く正しい女優はテレビに出てこない。

パキッとしたブルー、赤など明るい色。チェックや水玉のような子供っぽい柄。ワンポイントでブローチやリボンをつけるのがお決まりと言ったところ。テレビ映えはするんでしょうけど、なんせチルディッシュで、美しいというより可愛いに限定されているような気がする。

でも自分自身、太ってみてサイズ大きめの服を試してみると確かに明るいカラーの方が、膨らんだ顔や体はパキッと締まって見えるので、ある程度の理には叶っているっちゃあ叶っているのだけれど。

例えばだけど、ネイビーのデコルテが綺麗に見える、スカート部分はふわっとしたふくらはぎの一番太いところまで隠れるようなラップワンピースとか、どうだろう。太っている時、あったらいいな、と思った。フォクシーやセオリーをもうちょっと崩したようなシャープでモードな空気感がある洋服。そんな服私が太っている時はない。なかった。ただZOZOがPBを始めたのである程度は改善されるとは思う。

 

自分は服を作っているが、パターンを引いてるとふくよかな体型になるほど曲線がゆるやかになっていくのでシャープなシルエットを出しづらいというのも現実として、ある。あと清潔感が手に入れにくい。確かに細いほうがスッキリは見える。既存のブランドが提示するモデルの子も細い。もう何十年も前から。

 

以上のことを踏まえても、ふくよかな体型でオシャレする方がどう考えてもハードルが高い。テクがいると思う。手の込んだことを沢山しないといけないように思う。どう考えても太ってるのに素敵な服を着こなしている人の方がオシャレ上級者だと思う。それくらい難しいことだと思う。痩せてるほうがいいか、太っているほうがいいかの二択だったら後者がすんなり淘汰されても仕方ないとも思う。この世界では、痩せてるほうが色々と手っ取り早い。世の中の女性が「痩せたい」と切望するのはごく自然なことなのだ。

 

この世界のスタンダードが「細い」に限定されてるから。そうでなくてもあなたの生まれもった美的感覚が「細い」ならそれは変えようがない。変え難い。それは否定されるべきではない。

 

 

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でもふくよか・太ってるのはなんも悪くない。体型に善悪はない。体型に道徳的基準の善悪はないのだ。上の写真を見てほしい。こういう世界観も一応は、ある。これはlonelyというニュージーランドの下着ブランドのヴィジュアルである。「ふくよか」「太っている」に対する認識がお外の国では全然違うな、と思う。この国でははふくよか=暑苦しい、悪い。まずこのような体型の女性がモデルになったり肌見せするような写真はこの国では撮らない。この写真の女性はセクシーでさわやかで美しい。紹介はしておこう。

 

もう一度言うけれど体型に善悪はない。太ってその変化を、みんなに興味本位で指摘されたり冷やかされるのはそれこそ道徳的に悪、だと思う。人間はその時々の環境、ホルモンバランスによっていくらでも体型は変化する。特に女性は。だからあんまり前後する体重をその時その時でスポットスポットで、否定しすぎないで欲しい。落ち込みすぎないでほしい。いくらでも健康を害さない限り、痩せてもいいし太っても構わない。それを人にとやかく言われる必要はないし、増してや良し悪しを決められるべきではない。というか、第三者が体型の変化に軽口を叩くな。自分が一番体の変化についてセンシティブなのだから。自分が一番分かってる。痩せているのが美しい、太っているのが美しいという価値観は限定的なものではない。フレキシブルなものである。

 

でもただ一つ、こと体型においては急激な変化でなく、ゆるやかな変化を描いてほしいと思う。変化するのは何も悪くない。また、多様性が謳われるこの時代に、「痩せ」は良くて「太ってる」は悪という考えは時代錯誤も甚だしいとは思いはする。自分の美的感覚を人に押し付けないように。

 

ピンクがかわいいと思う人もいれば、苦手だと思う人もいる。犬がかわいいと思う人もいれば、嫌いな人もいる。それと同じくらい人それぞれの価値観だよ、美的感覚って。自分の中では絶対でも、外の世界に出ると意味をなさないようなものです。本当に。

 

 

※暑さで脳が研ぎ澄んでないせいか、ブログのテーマである持病について書こうという気になれない。というか、持病のことになると思いや事象がいくつも連鎖してどこを切り取って書けばいいか分からず最近挫折してしまう。自分の書きたいことを書くのが、今 ハードル高い。今日の話題にしても、もう少しちゃんと書きたかったけれど、なんかまだ時期尚早だと思い、軽めにしました。ふくよかや太っているということを肯定する文言や文章を見るだけで辛くなる人もいるのも分かっています。不快になったらごめんなさい。終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピアノ教育に興味がある

 

 

 

「ごきげんいかが?どんな服を着ているの?お通じはまだいいかい?快く仲直りをしてくれない?さもないと、ぼくの名誉にかけて、バーンと一発やらかすぞ! どうせきみは笑っているな―万歳(ヴィクトリア)! 僕らのお尻を和平条約調印のしるしとしよう!」


モーツァルトの手紙より

 

最近、ピアノ教育に興味がある。

というのは、クラシック界に名を残したスター達はどう考えても社会に適合できないクソダメ人間が多かったからだ。音楽がなければただの人、というよりは音楽がなければ人として終わってるという感じ。

彼らには豊かな才能と突出した集中力があったに違いない。彼らは特別な人間であって我々のような凡人とはかけ離れた存在だ、と言われればそうなのかもしれないが、果たしてそうなのだろうか。

私は19歳くらいまでピアノを習っていたが、ピアノって毎日、何時間もやらないと上手くならない。当然私はできなかった。子どもが毎日何時間も同じことをやり続けるのは結構至難の業だと思っていて、やり続けることはできたとしてもモチベーションを保つのもまた更に至難の業。彼らの親はどういう教育を施していたのだろう。(パワハラ的な世界があったにはあったのだろうが)

私は彼らの中にはADHD的気質を持っていた人達が結構いると思っていて、数奇というか苦労の耐えない人生を送りながらも、一つのことを続けてきたというのは、彼らを見習って真似できることがたくさんあると思う。

 

楽家達のクソダメエピソードを聞いていると、「できる人」というのは「どこかが欠けている人」なんだと思う。そう言われてみれば私自身、周りのできる人で全てが完璧な人を見たことがない。

まずできる人というのは何だろう。できる人の定義はたくさんあるのだろうけど、どの定義のできる人であれ共通しているのは、「続けることができる人」「辞めどきを知っている人」だと思う。あんまりやる気だの根性だのは関係ない気がする。

できる人は、まず休むのが上手い。自分を甘やかすのがとても上手い。あと結構自分勝手な人も多い。「なにかが欠けていることに躍起にならない」。足し算より引き算思考の傾向が多い気がする。やる気と根性、完璧主義は最も遠ざけていいものだと思う。 

 


自己啓発的な本で、やる気を鼓舞する本はたくさんでてるけれど、もっと「良い休み方」「手の抜き方」「上手いサボり方」とかそういうテーマに焦点を当ててみた方がいいと思う。「できるとアッパラピーな生き方の両立」とか。やる気なんて大概の日本人はあるって。真面目な方だって。

尊敬する人がいたら、その人の仕事のやり方だけを真似するんじゃなくて、その人の休み方やダメな部分も観察したほうがいい。と思いますよ。

 

 

かなり駄文にはなってしまったが、映画「シャイン」を見ていたら、ふとそんなことを思ってしまったのである。(シャインは天才ピアニストデイヴィッドの人生を描いた実話映画。興味がある人はぜひ)この映画を見てると幼い時の自分を見てるようで辛かったし胸糞悪いのオンパレードだったのだが、ラストの方でいい風になっていく。デイヴィッドは精神が崩壊することでそれまでの何かが「欠けた」。そこから本当の自分を取り戻していく。ラストに注目して見てもらいたい。

 

 

 

 

 

 

知りたかった今日

35歳で死にたい。

 

そう真面目に思っている。生きてるのは楽しいけれど、やっぱり辛い。辛い部分が今の私には多すぎるのだ。毎日の体のコントロールは思いの外しんどい。キツイ。以前のブログにも書いた通り、このしんどい毎日があと50年も続くのなら、体のいちいちのことが気にならない5年を過ごして、35歳のある日ポックリ行くほうが幸せに思う。心からそう思う。

 

でも私は寿命を決めれない。

 

35歳で死にたいとか実際に友達やいろんな人の前で言っちゃったら、周りの罵声しか聞こえない気がする。命を無駄にするな、生まれたことに感謝しなさいとか、そんなありきたりのこと。

 

よく「あなたが生きてる今日は、誰かが生きたかった今日なんだよ」という自殺を食い止めるキャッチコピーのようなものが存在する。ありきたりだけど、結構腑に落ちてしまいそうな言葉だ。命を無駄にするな、より説得力がある気がする。

 

でも全く私には届かない。なんていうか、そんなこと知らねーよ、あんたの生きたかった今日を生きてるわけじゃないよ。私は私のデコボコ道を今日は今日とて生きてるわけで、あんたの人生を歩んでるんじゃないよ。あんたの人生だったら私も死にたいとすら思わなかったかもしれない。ハッピーな人生で羨ましいわと思ってしまう。(全部がハッピーな人生なんかないのも知っている みんなも苦しいことがあるのも知っているけれど)

 

でもある日、私は誰かが生きたかった今日を誰かが知りたかった今日に置き換えてみたらまだ、心にすんなり落ち着くような気がして来た。なんかそっちの方が共感できる気がする。

「あなたが生きてる今日は、誰かが知りたかった今日なんだよ」こっちの方がすんなり来る。


確かにある日ポックリいっちゃえれば、それはそれでもう願っても無いことなんだけれど、まだ私がみっともない毎日を過ごしながら死んでないのは「知りたい」という気持ちがあるのだと思う。それは死なない理由の一つではあると思う。

 

例えばだけど、友だちの子どもがどんな風に成長するかはかなり気になるし、生き続けた結果私はどんな人間になるんだろう 無職のままか 何か人に役立つことができているのだろうか、なんて自己実現のような欲求もまだあるみたいだし、ババアになったらどんなファッションをしてるのか 2050年のファッションはどんな流行なのか(私はファッションが好きだ)、とかもちょっと見てみたくもある。彼氏はどういう感じでくたばるんかな、とか。(彼氏は呑気な人だから苦しんでる姿が想像できない)

 

良い天気のときに、心地よい風に吹かれて気持ちよかったりすると案外生きててよかったなんて単純に思う。私は今の季節のような風にたそがれてぼんやりする時間が大好きなのだ。

 

死んだ誰かが知りたかったこと
死んだ誰かが感じたかった今日のサイコーな天気

とかなら、なんか、腑に落ちる。


知りたいことがまだ私には少なからずあるな、とは思う。死にたいくらい悩んでる人ってなにか答えが知りたくて悩んでることも多いし。人って結構「知りたい」に突き動かされているんだなぁと思う。

 

でもなかなか生きること、すなわち健康を維持するのって難しい。今日を生きたいと切実に願う人も、今日死にたいと希望する人もどちらもいろんな意味合いで健やかでないのは共通している気がする。命ってグラグラ揺れてるんだね。きっと。

 

 

 

人間関係はフェアプレー

 

 

 

最近、「心を患ってしまった人 対 それをケアする人」のバトルについて相談されました。簡単に言えば、鬱になった人によかれと思って相談に乗っていたら鬱の人に暴言を吐かれて自分自身の心が参ってしまったという話です。この手の話が多いな〜と思ったので今日は書いてみようと思います。

 

うーん、悩ましい。
何故私がこの手の話を聞いて「悩ましい」という感想になるかと言うと、どっちの立場の人の気持ちが多からずとも分かるからです。つまりは、暴言を吐かれた人の気持ちも分かるし、鬱の人が暴言を吐いてしまう状況も分からなくはないからです。私は中立の立場をとってしまう。

 

鬱になった時に、周りが色々アドバイスしますよね。「外に出てみたら?」「しばらく仕事休んでみたら?」などなど。私が経験して感じるのは、どのアドバイスに満額回答なんてないってことです。「外に出てみたら?」というアドバイスに対しては、外に出れるだけの体力がある患者さんもいますし、外にも出る体力もない家で篭るしかないっていう患者さんもいる。「仕事休んでみたら?」というアドバイスにも「仕事休んでいいんや」とホッとする人もいれば、「仕事なんて休める状況じゃない。そもそもお金のことはどうするんだ」って逆に怒っちゃう人もいる。

このアドバイスのちょっとした行き違いでもトラブルの元になることもあるなーと。

鬱の時ってただでさえ気分もどんよりしてるし、視野も心の度量もなくなるから、他人から言われたことをただでさえマイナスに受け取ることは多いな、と。他人から貰ったアドバイスでさえも最悪のパターン、「攻撃された」にすり替えてしまう場合もあると思います。なかなかプラスに受け取れないですよね。自分はこんなに苦しいのに、周りは無責任なことばっかり言いやがって。みたいに思っても仕方のない状況、といいますか。

 

 

でもね、自分は病気だからといって暴言を吐いてもいいのか?という問いに関しては、全力でNOと言いたい。それは、自分の病気を凶器に変換して相手を攻撃しているのも同然です。
そして、ケアしてる人も自分の言った言葉で鬱の友だちや家族を余計傷つけてしまった、と自分を責めないでほしい。さっきも言った通り、この状況の患者さんに対して満額回答のアドバイスなんてないんです。ほんとに。患者さんの言うことに全部寄り添うことなんて絶対無理です。それはスペシャリストと言われている精神科医やカウンセラーの方でも無理なんだから。素人のあなたができなくて当然と思って頂ければな、と。というか側にいてくれる優しい気持ちだけで、どんなに励みになることか。

 

とは言うものの、自分が攻撃しているかどうか、暴言を吐いてるかどうかすら分からず冷静になれない患者さんもいるし、精神的な病気に対する理解もなくて肩身の狭い思いをすることもあるので、健康な人を妬ましく思ったりしてしまうのも仕方のないこの社会の状況…とも思うので、ほんとにこのケアされる側とケアする側の間で起こるトラブルは難しいなと、毎回聞くたびに思います。両方の気持ちが分かるだけに。

 

でも、この難しい問題を解決するための魔法の言葉があると思います。それは、「ありがとう」「ごめんなさい」を使うということです。そう、幼稚園に帰るのです。
もし周りに暴言を吐いてしまったり、当たってしまった時、その時即座に言えなくても、時間が経ってからでも「あの時あんなこと言ってごめんね」と言いましょう。「いつも一緒にいてくれてありがとう」とも。
「自分が今しんどい状況なので、心配させるけど見守ってね」など素直にお願いしましょう。そう言われるだけで、ケアする側は救われます。あなたも友だちや家族を失わずに済みます。案外簡単なことだと思います。

 

 

「病気だから、障害者だからなんでもしていい・言いたい放題言っていい」っていうのは、やっぱり違うと思います。それって健康な人を逆に差別していませんか?あなたが自分の病気の理解のなさを嫌がるのと同じように、あなたも健康な人の気持ちへの理解がないと思いませんか?健康な人だって気持ちがあります。普通に傷つくし、失敗することだってあります。人間関係はどんな場合もフェアプレーです。フェアプレーが出来ず、相手に言い過ぎた時は「ありがとう」と「ごめんね」をたくさん使いましょう。

 

 

長々、正義の味方みたいに書きましたが、私も暴言を吐いたり 喧嘩したり 人間関係の縁が切れるということを沢山してきました。沢山の失敗をしてきて、沢山怒ったり悲しい思いをしてきた上で、やっぱり「人間関係はフェアプレー」だと思うのです。

 

 

最後に完全なるわたしの独り言だけど…。
なんか…Twitterのプロフィールに「我はADHDだ」「我は双極性障害だ」などと障害名を掲げておいて、ツイートは言いたい放題の方を見かけるんですが、それってどうなんかな?と。言いたい放題の背景として社会で平等に扱われていないというフラストレーションをすごく感じるのですが、そんな言いたい放題して病気の理解が広まったり差別が無くなると思ってるのかな?とたまに疑問に思います。逆にそんなことしたら、私達は煙たがれるのでは?
自分の非があるごとに、病気を言い訳にする人も頂けないな、と。病気と関係ないことでも、病気を言い訳にするのってどうなの?
はっきり言って、病気に対する正しい理解を啓蒙したい側からすると、やりたい放題の方の存在は迷惑でしかありません。怒りすら感じる時がある。


ツイートも人間関係も基本はフェアプレーだと思います。病気という切り札は、正しい場面で正しく出しましょう。

 

日記をつける【実践編】

 

 

前回の記事で「日記をつける」ことをオススメしましたが、今回は「実際の日記のつけ方」を書きます。この方法はスケジュール帳・日記・体のバロメーター表の3つを兼ね備えたものなので、なかなか便利なことを考えたものだなぁと自画自賛している。私の書き方も良かったら参考にしてくだされ。

 

 まずウィークリータイプの手帳を用意します。私は無印良品のマンスリー・ウィークリーノート(A5サイズ)を使用。無印良品のウィークリータイプの手帳には、週間バーチカルタイプと週間レフトタイプの2種類があるので、レフトタイプを選んでくださいね。私の真似をしようと思う稀有な方がいればの話ですが…。

 

www.muji.net 

 

 

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無印ウィークリーノート。週間レフトタイプ。

 

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マンスリーのコーナー。ここにはスケジュールを書く。まぁ普通。

 

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ウィークリーのコーナー。左が一週間の予定、右が方眼紙になっている。

 

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これで一日に付き3項目のスペースができる

①日記コーナー・・・今日の気分、気持ち、やったこと

②体のバロメーターコーナー・・・体重、基礎体温、天気などなど。

③今日食べたもののコーナー・・・ここは基本的に自由。

 

 

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実際に書いてみるとこんな感じ。架空の人物の日記なので、内容は気にしない。

 

日記のつけ方以上です。みんなも自分なりのノートのつけ方を見つけよう!書く(描く)って楽しい。