デブを改めたい。

双極性障害Ⅱ型と診断され7年。身も心もスッキリしたい。

自己肯定感というメンヘラを悩ますパワーワードについて

 

自己肯定感というのは、「待ってもらった時間」なのかなと思う。

メンヘラを長いことやってきて、自己肯定感をつけましょうとか、親に愛されなくて自己肯定感が育たなかったのがメンヘラの原因とかいう言説を見ると、イラつく。大体のハウツーに書いてある。そもそも自己肯定感の定義を調べてみると、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自尊心、自尊感情と同じような意味で用いられる言葉である、らしい(Wikipediaより)。なぜ、私がこの言葉にイライラするのかというと、いくつかあるが、この自己肯定感という感情は、小さい頃から親や周りに育ててもらわないと得難いものらしく、それを逃してしまうとなかなか得難いものだそうだ。もう私は、時間を巻き戻して生まれた頃に帰ることができない。

自分に自己肯定感がないのだろうな、というのは感じており、かと言って自分のあり方を積極的に肯定していないかと言うとそうでもない。だって、自分に少しでもプライドや自信がないと人は生きにくいと思うし、そう一滴も思えないなら、当に自分は死んでると思うからだ。自己肯定感とプライド・自信というのは意味のちがう言葉というのも分かるけど。なんとも釈然としないふわふわした言葉だと思うのである。

自己肯定感がない自分が、困っていることは、怒りっぽくなるということである。自己肯定感とかいう言葉の意味はよくわからないが、その言わんとしてる感情がないと、怒りっぽくなり、人を攻撃し、全てを善悪で判断するようになるような気がする。で、解決方法は辿ると、自己肯定感がないからです、とハウツーに手遅れと言われているようで、なんとも救われない気持ちになり、自分の過去の状況を呪い、余計腹が立つ。正直、この言葉は全くメンヘラの根本問題をクリアにする言葉ではないな、と思う。むしろ、悩ましい言葉でしかないような気がしてくるのだ。

かと言って、とにかく怒るのが私は嫌で、いろいろと対策を講じて来た。だって怒ってもかっこよく怒れないんだもん。どういう対策を講じて来たかというと、まず怒らない。怒るという感情にまず蓋をしてみたり、怒っている対象に対して、逆にいいところを見つけてみようとか、逆思考を講じてみたりした。しかし効果はあまりなかった。人と接する際に、多分「怒ってないよ」「気にしてないよ」というような穏和な態度を取れる人が、特に日本ではありがたがられ、重宝されるように感じているが、半分賛成で半分疑問に思ってしまう。人付き合いをそれなりにしてみたけれど、人はある程度、自分の意志を述べ、自分が疑問に思っていることをかっこつけた言い方でもなく攻撃的な言い方でもなく、自然で等身大の態度で周りのことも包み込むように述べれるということが、必要だと感じたからだ。自分を抑え付け黙って我慢するのは、自分を擦り減らし、人間関係も両方破綻させる。

ということで、自分の気持ちに引っ張られず、上記のような態度で臨もうと思うと、一個一個、事態を検証していくということが大事なんだな、と考えるようになった。Aさんという意見の対立している人がいて、Bさんという仲裁に入っている人がいて、自分がいるとすると、一個一個、ゆっくり検証していく。Aさんの状況、Bさんの状況、自分の状況を共感ベースではなく、冷静に一個ずつ考えていくのだ。その上でまとめを作ってみて、自分にはできないこと・できること(事実)を伝えていくことをゴールに思考を巡らせていくと、大体、自分の怒りの感情や攻撃性は、伝える上で邪魔になり、冷静に気持ちを吐露できるような気がする。そして、明らかに弁護できないようなひどい人は、自然と自分の圏内から遠ざけるようになり、揉め事が起こりそうな人とは、揉め事が起こる火種をいくつかじっくり検討し、関わるタイミングを自分で調節する。あくまで、自分のペースを大事にして、蓋を開けたり、閉じたりできるのが大人の態度なのかなと思う。検証し、偏らないある程度バランスのとれた意見を持ってからしか、意見を呈さないと決めてからは、かなり気持ちの面で楽になった。

一つ一つ検証したり、タイミングを伺うというのは、時間がかかる。自分の怒りの感情が自然と冷め、冷静に検証できるまで、自分を「待ってあげる」のにも時間がかかり、検証できてから人に意見を呈するまでにも時間がかかる。多分、人付き合いが上手く、よどみなく話せる人というのはこの処理能力が一瞬で出来、交渉ごとでも大人のプロレスができるのかなと思うが、大人でも、人付き合いというのは、その場をなんとなくもたせて終わるか、しょうもない共感や言葉足らずの行き来でおわることが多いなと感じるから、なかなかこれらをしている人は少ないのかなとも思う。そもそも、私だって怒りやすいけど、怒りに蓋ができず、噴出してしまうから、こういう方法を取りはじめたのだと言えるし。

ということで、思考に幅を利かせ、冷静に自分と周りを検証していくということは、自分にゆとりを持たせ、時間がかかるということが分かってくると、自己肯定感を持ち心がニュートラルな状態の人は、小さい頃から「待ってもらえた」人なのかなと思う。急かされず、成長や期限を待ってもらえた人なんだと思う。ダメな自分を許してもらうというより、ダメな自分を「待ってもらえた」という言葉が正確というか。偶然かもしれないが、自分の周りのニュートラルな心の持ち主は、締め切りを破り続け、部屋も生活できない状態までギリギリまで放っておく汚部屋の持ち主がほとんどだ。彼らは信頼という言葉で私を待ち、自分のことも自分で待ってあげているような気がする。自分を待つというのは、いい加減なようで、心を健やかに保つのに一番の栄養剤なのかもしれない。

冒頭の理論に戻らないように書いておくが、私は自己肯定感もあまりないタイプの人間だし、よくよく考えてみたら、親に待ってもらったことがあまりない。次から次へと課題やタスクを与えられ、急かされ、成長グラフを描くように促されて来た。それは彼らのアグレッシブな人生の姿勢として、自分にとてもよい効果をもたらした所もあるが、逆に、常時、落ち着きのないユラユラした心をもたらしたとも言える。社会も待ってくれない、お金もなくなる前になんとか稼がないといけないというリミットがあり、大人というのは「待ってもらう」ことがいかに少ないことか。だから、大人になってから自己肯定感が育ちにくいと言われるのもこのためなのかもしれない。でもどこかでモタモタした自分を待つ状態を作ることは、できるのではないかと思う。メンヘラに焦りは禁物と言われるのは、焦りと待つが対義語に近いからなのかもしれない。しかし、自己肯定感って言葉はなんなんだ。よくよく考えたら、毎日彼氏に好きだよって言われ続けてるけど、内弁慶で、外に出たら人が怖くておどおどしてるわ。愛された量じゃないのかもしれない。待ってもらった、待ってあげた時間の量なのかもしれない。待ってもらうのに、愛情がある方が待ちやすいってだけなだけで。でもさ、自己肯定感なんか、そんな悠長なもんなくても生きていけるって。生きていくしかないし。毎日、一個一個自分のやったことを確認して、褒めたりして自信つけていけばいいだけの話。無闇に褒めるのとは話は違うけど。お互いにお互いを待ち合って、自己肯定感なくても、醜いところ見せながら奮闘して生きていきましょうや。部屋が汚なかったり、体が臭くても、ある程度はいいじゃないか。あと体調悪いと、怒りっぽくなるのは仕方がないです。精神性の問題ではない。根気のいることだが、何事も自分を待ってあげよう。