デブを改めたい。

双極性障害Ⅱ型と診断され7年。身も心もスッキリしたい。

山口達也の逮捕に思う

 

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御所。きれいだね。

 

 

TOKIO山口達也がまた逮捕されて、数日、自分のことを振り返ってみたのだが、私はこの件について正解を出すことができない。

というのは、私の近しい人にも山口達也のような人がいたからだ。彼は昨年、お酒を飲みすぎて自宅の風呂で亡くなった。

それまでの経緯としては、アル中になってから離婚し、主たる仕事はなく家族が仕事を与えるも続かず、トラブルを起こし運転免許剥奪、その後は家に籠って酒を飲み続け、夜の街かなんかで借金を作り、周りからはどうしようもないやつ扱いされていたが、本当にどうしようもないやつだったのか?という問いには、私から見た彼は、そうでもなかった、という結論になる。

少なくとも私は彼を見ていて、心が抑圧されても仕方ない環境にいたと思うし、彼の周りもたいへんな苦労があったにせよ、彼が弱い立場に立ちやすい所もあったのではないかと思う。自分と重ねて見ているからそう感じるのかもしれないが。

私は亡くなるまで、彼のことは問題があるとは思いつつも、他人事として見ていた。でも、亡くなったことを聞いた時、彼との思い出を振り返ってる自分に気持ち悪さを感じてしまった。亡くなる前に、振り返る暇があるのなら何か、私にできることはなかったのかと。

でも、アル中になってしまうと、当人は孤立してしまい社会的な責任も果たせる力もなく、どうしようもない状況の方が多くて、実際存命中にできることなんてほぼなかったような気はするが。

数日考えてみて、もしまた周りの誰かがアル中ではないにせよ、こういう状況になった場合、どうしようと思ったが、なにも思いつかなかった。

強いて言うのなら、周りの人と信頼関係を作ることなんだろうなと思う。それは優しくするのではなくて、意見の違いがあってもそれが飛び交うことが当たり前の状況があれば、面倒を見るにせよ支援が続きやすいのかなと思った。でも分からん。人間関係において、自分が気取ったり、お化粧して見せるっているのかなと思う。意見を言いやすい環境があれば、私の周りにいた彼も、もっともっと早期の段階で、問題を回収できたのかなと思う。と思いながら、自身の普段の行いを思い出して反省し、恥ずかしいと感じたりする、嗚呼…。

私は一人のアル中患者しか知らないので、はっきりしたことは言えないが、アル中だった彼は酒を飲むことによってでしか、自分を解放できなかったんだろうなと思う。もっと身近な所で、みっともない自分だったり本音をさらけ出せたらすこし話は変わってたのかもしれない。

太宰の人間失格においても、主人公が飲み屋でクダをまいたり、めちゃくちゃするようなエピソードがあったと思うが(というかそんなエピソードばっかだっけ?)、あの主人公にとっても飲み屋や酒が自分のホームだったのかもしれない。主人公は親の愛を感じれなかった人物だった。私の近しい彼も、親がなかなかのひどい人だった。酒に故郷を見いだしていたのかもしれない。

かと言って、こういうアル中とか精神の病気が全て親のせいかと言われると、そうでもないと思う。親が悪い、というか、親との相性だったり、その人自身の性格もあるし。親のせいって言うのは、めちゃくちゃ乱暴な言い方をすると後付けに過ぎないのかもしれない。性格というのは生まれ持ったもので変えるのは多分に難しいので、そっちの方がなんとかできんかな?と思う今日この頃です。

よく言うじゃん?努力してない人が悪い、とか、努力したから私は成功したとか、考えてないから悪い、とか。努力のような行動しないと息止まる!みたいな私自身を振り返ると、それはもう生まれ持った性格だとしか説明できないわけです。上記のようなことを聞くと、いや、あんたは性格が現代社会にフィットするようにたまたま生まれただけやで…って私は思ったりする。かと言って、私自身、誇れるようなことは何もしてないし、太宰風に言うと恥の多い生涯を送ってきたって感じですが。なんかこの生まれ持った性格についてはまだまとまってないし、説明できないのでこのへんで。

話は戻りますが、太宰の話のように、飲み屋が私の近しい彼にとって、リラックスの一助となっていたのなら、私は少しホッとするかも。彼がリラックスした顔を最後に見たのはいつだろう。いつか道ですれ違ったら、すごく邪悪な顔をしてこちらを見つめていたから。

そして山口達也よ…アル中は別に治らんでもいいけど、孤立すんなよ…あと好き勝手書いてすまん。

 

 

 

8月読んだ本・見た映画

 

 

 

 

 

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⑴PACHINKO/ミン・ジン・リー/文藝春秋

装丁と帯に惹かれ購入。在日韓国・朝鮮人の大河もの。情報としては断片的に知っていたことが、私の中で繋がった。これは周りの人も読んでいて、皆さん、寸暇を惜しんで読んだと言っていました。私もその一人。

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⑵あんぽん 孫正義伝/佐野眞一/小学館

パチンコ読了後、年明けに購入していたこの本を、引っ張り出して読んだ。パチンコで最後の方に出てきた世代の現在が書かれているような気がした。パチンコから物語が地続きで繋がっているような感覚。

にしても孫さんって全エピソードが強いね。イチローっぽいなと思ったわ。孫家のエネルギーが…ほとばしっている。

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(1)(2)を読んだ後、私の中で何かが吹っ切れたような気がする。人間って、毎日、無数の危険を擦り抜けて、命からがら生きてるようなもんなんだよな、って思った。今は安全が整備されているからそう思えないかもしれないけれど、私はこの本達を読んで、最終、そう思った。だから自分の置かれた悲しい境遇を必要以上に嘆く必要なんてない気がしてきた。私だけが割りを食ってる(損してる)みたいに思うのはおーーわり!!!と思ったし、辛いことも自主的な姿勢で受け入れていこうと思った。それはこの本達に書かれていた人が、運命や悲劇をパワーと心の綺麗さで生きているのを見たからそう思ったのかもしれない。でも、在日の人への仕打ちだったり、世界の最悪な出来事を正当化するのとは、別なのでご了承ください。そんな悲劇はなかった方がよかったに決まっている。

 

⑶未来の年表②/講談社現代新書

うーん、これは別に読まなくてもよかったかな…。この著者が少子化を止めるには、テレワークを推進しよう!と薦めているのだが、こんな形で実行されていくとは夢にも思わなかっただろうな。

https://www.amazon.co.jp/未来の年表2-人口減少日本であなたに起きること-講談社現代新書-河合-雅司/dp/4065117682/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=カタカナ&crid=3DZ21WEJAIWSP&dchild=1&keywords=未来の年表2&qid=1598782822&sprefix=未来の年表%2Caps%2C901&sr=8-2

 

フォレストガンプ

彼氏にフォレストガンプ見たことないの?と言われ、見たことないので見た。「過去の嫌なことはどんどん踏み倒して前に進んでこ!」と最近思っていたところ、似たようなセリフが劇中出てきたので、うれしかった。過去と決別できた気がする。フォレストガンプの、どのまでも進んでいく集中力、理解できる(できない人もいるらしい)。自閉的というか。私は見て、爽快〜!フォレストガンプ最高〜〜!!!って思ってたのに、そのあと、彼氏にフォレストガンプアメリカの歴史を都合よく描いてて(みたいなこと)、批判も多いって解説されたけど、全く実感が分からなかったので、アメリカの歴史とか空気とか全く分かってないんだなと思った。てか、私の感動した心に水を刺すなよ、と思った。障害者を描いた映画では、「最強のふたり」見たとき、全てにおいて、こんなもん現実にあるわけないやろ!都合よく描きすぎ!と観賞後、イラっとしたが、「フォレストガンプ」の方が、まだあり得ると思ったかな(出来事はありえないけど)。

 

 

今年はまだ本読んでるほうかなぁ。映画もちょいちょい見てる。映画はドキュメンタリーが好きです。本は、勉強になる本が好きです!でもたまに小説挟まないと、読書が滞るな…。暑すぎて、もう毎日、冷房の効いた部屋の中で一日中、映画と本見ときたい…。一回、読書ってやめると、永遠に読まなくなるんだよね…。最近は英国紳士が気になる。素敵な英国紳士が出てくる映画、本があれば教えてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

最近怒ってない

 

 

アンガーマネジメントという言葉を聞くようになって久しいが、アンガーマネジメントの最終到達点は「怒ってる自分、怖ぇ。」と戦慄を覚えることに尽きると思う。怒ってはいけない!とか、怒っている対象にも事情があるのだから、とかのアレやコレやで、自分を抑え込んでいるうちは治りにくいような気がするわ。

20代の頃の心理状態としては、怒るというよりとっ散らかってるという形容の方が合っていたが、30代になってからよく怒るようになってしまった。このブログにも度々書いたと思う。結婚のこと、病気のこと、お金のこと、周りの環境との違い、近年のインターネットにおける諍いなど、不安になり怒る種はいくつでもある。しょうもない部分がウェットな社会だなぁと思う。しかも年を取ればとるほど、ウェットな世界観になっていく気がする。田舎は村社会っていうけど、都会でもインターネットでも村社会してるじゃん。クソ。もっと文化的なことにウェットになってほしい。話はそれたが、自分が脅かされそうに感じると防衛反応として怒るのは、自然な反応だ。しかし、怒るというのは気持ちが良いものではなく、止まらずどんどんエスカレートしていく感情なので悩んでいた。

まず怒りがなくなった第一段階として、しばらくインターネットから離れてみたら、怒る回数が激減した。環境を変えるって大事なんだなぁ。それでも怒りやすいのは変わらなかったと思う。

第二段階として、ある日、オードリー・タンが高級ブランドを見に纏ってELLEという雑誌に載ってるのを見て、気にくわないなと思ってしまった。なんだろう…彼の経歴を読んだり調べたりしているうちに、ひがみ根性なのか負けず嫌いなのか、イケすかないなぁと感じたんだよね。でもそこでハッとしたのが、台湾の遠い国の、会ったこともない「よう分からん奴」に対して僻んで怒りそうになってる自分、怖えぇひぇぇぇぇって思っちゃったんだよね。

僻むとか負けたくないって感じるのって、結局、自分と相手を同列、もしくは同質とみなしてるってことでしょう。自分だったらこうするのにと、思うから怒るんでしょう。自分だってそうなれたのにと、どこかで思ってるから僻むんでしょう。知人なら、まだ分からなくもないが、会ったこともない人に対してそんな気持ちになってる自分ってもう怒りの末期で、自分の目にしたもの耳に入れたもの、自分と全てのことを、並列に見るって超怖い現象だなぁと思ってしまったわけです。そこから心の中に「自分≠周り」という公式を作ってから(というかオードリー・タンの件で懲りた)、私は怒らなくなった。嫌だなぁと思うことはあるけれど、嫌だなぁ〜〜で止まってる。

という経緯で、しばらく怒らず、穏やかというよりまあまあくらいの感じで暮らしていたのだが、鬱っぽくなると、それが怒りという現象で現れる人が一定数いることに気づいた。知り合いが不安定になると怒ってるのを見て気づいた。怒り方の特徴として、しつこい。何回も手を変え品を変え、同じ内容の怒りを訴える。言葉もひどい。大体、文体にパターンがある。鬱というと、やる気がないだとか、無気力になり何もできなくなるとかのイメージがあると思うが、確かに私は、しんどい時に、無気力になったことが一度もない。フィジカル面ではだるい、とか、眠れない眠りすぎるということはあるが。メンタル面ではずっと怒ってたいたような気がする。怒りたいというよりは、できることが狭まり、代償行為としていらんところに手を出す、エネルギーが有り余っているという感じで、怒りに集約されるのだろうな。そう、怒りっぽい人はバイタリティがあるのである。怒りがギャンブル、買い物、依存症として現れる人も少なくなかろう。多分、元気になったら前向きな形でそれが現れるから心配しなくていいよ。長期化するのはよくないが、怒りたい時に怒っておくほうがいいのかもしれない。

身の回りに怒りはたくさんある。怒ったり僻んだりする人は、要は「悩んでいる」んだと思う。怒りが長期化し、疲れ果てると、周りが見えなくなり、ある特定の思想に傾倒していく人がいるのをなんとなく見ていて思う。(○翼とかス○リチュアルなど)。かと言って、怒ってる人の言っていること、幻覚が聞こえる人、おかしなことを言ってる人の話す言葉が、妄言でもないとも思うわけです。きっと、その人の考えていること見たもの感じたものの、ひっかかりが言葉になっているので、障がい者だ、とか気狂いだ、とかで済ますのも甚だ失礼な話。要は、人付き合いにおいて「優しくする」とか「怒らせない」より「悩ませない」の方が大事なのではないのかと思う今日この頃です。優しくするって疲れるじゃん。こっちもエネルギー使うじゃん。「怒らせない」も、相手の顔色をゴリゴリ伺ってるような感じがして、違う気がするし。でも「悩ませない」ってマナーなのかなと。まぁ難しいけどね。

今日、彼氏が「自分みたいなやつがいたら、とてもイライラすると思う。シャキシャキ動けって言うと思う。」と話しており、自覚しているのなら「許す」って思った。まぁ〜〜普段、イライラしますよ。意識が、半分寝てるんだろうなと思うんで。よく考えてみると、私も生き写しの父を見ると、しょっちゅうイラっとするので、私も彼氏をイライラさせているんだろうし、人一人存在しているだけで誰かを怒らせたり気にくわないと思うのは当然のことかもしれませんね。非難叱咤なんてよくある日常だし、一生起こり続けますよね。大体、怒りって綺麗にはキャッチボールにならないんだよ。怒ったことは、怒った対象には向けれなくて、大体違う方向へ投げられる。浮気男に怒るより、浮気相手の女性によく怒るじゃん。職場のいびりも家庭でのストレスだったりすることあるじゃん。ヤフコメも然り。だから真にうけず、怒り怒られ、非難され非難し、抑制するのに格闘していきたいものです。とにかく怒りでしんどくなったら、「自分と他は違う」って思うようにします!!!あと近年のお笑いには、厳しい批判もありますが、お笑い界は「許す」という前提で、芸があるから私は好き。関西弁は好きじゃないけれど。

 

水害ハザードマップ

 

 

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ここ数日続く大雨で(おそらく数日このひどい雨は続くだろう)、日本各地で避難指示が出ており、他人事ではないと思い、自治体の出しているハザードマップを見て、自分の住んでいる地域は水害があった場合、どれくらいの被害が出、どれくらいの危険度なのかを調べてみた。どうやら、私の住んでいる地域(大阪市内住み)は標高がそこまで高くないので、かなり警戒しておいた方がよさそうだ。今、各地で出ている避難指示は、危険度が高い発令らしく、私は、今の今まで、避難準備〈避難勧告〈避難指示 この危険度の高さの順番も知らなかった。大阪府内の友人達の住んでいる水害ハザードマップを調べてみた。あらかじめ危険度を知っていても、自分の安全を100%確保できるわけではないけれど、調べてみて欲しい。どう行動すればいいか、家族や地域の人と話合ったり想像したりすると、対策は立てやすいと思う。Googleでは、「◯◯市 水害ハザードマップ」と検索窓に入力すればおそらく出てくると思う。大阪市のものを例に、ここに貼っておきます。

www.city.osaka.lg.jp

 

ちなみに、災害の深刻度を表しているマップと避難所を教えてくれる地図は別々にまとめている自治体もあります。「自分の住んでいる地域+ハザードマップ」とか「自分の住んでいる地域+防災マップ」とか「自分の住んでいる地域+避難所」とかを検索窓に入れて調べてみよう。なんでこんなに初歩的なことを書くかというと、私は今まで災害のことを具体的に調べると言っても、分からなかったからです。初歩的なことばかりでごめんなさい。でも、自分と同じような人がいると思い書いている。水害においては、土地の高低差によって、洪水被害と内水氾濫が起こる地域が深刻度によって色分けされているから、それをみて確認してほしい。ちなみに内水氾濫とは、水路や下水路が雨水処理能力を超えた時に、市街地のマンホールなどから水が溢れてしまう現象らしい。川の近くに住んでいないからと言って、安心はしない方がいいと思った。防災グッズの準備は色々な人が書いてくれているからいいとして、とにかくこういうことがいよいよ自分の身にも起きそうになったら、「高く」避難する方がいいらしい。水害の場合は、三階以上の建物に行く、車は運転してはいけない、などがある。こちらも大阪市のPDFがあったので貼っておきます。

https://www.city.osaka.lg.jp/kikikanrishitsu/cmsfiles/contents/0000300/300886/abeno_keihatsu02.pdf

 

これを機に地震のことも調べてはみたが、阪神淡路大震災は0.2〜8%位の確率で起こると言われていたそうだ。極めて低かった。一方で南海トラフは70〜80%の確率で30年以内に起こると言われている。他にも日本には危険な断層がたくさんある。南海トラフよりは発生する確率は低いのかもしれない。しかし、確率が低くても阪神淡路大震災は起きた。なので、地震や水害が起こっても被害が少ないと予測されている地域でも、気を緩めないでほしい。二次災害もあるし。特にこんな時は。


とにかくハザードマップや防災マップはこれを機に見ておくと勉強にはなりそうだ。勉強になったからと言って、自分や大切な人が助かるとは言えないけれど。なんて酷いんだろう。綺麗事は言わない。でも、とにかくみなさん、無事でいて。人間は生きているから仲良くもできるし歪みあったりもできるんだと痛感する。今、避難指示が出ている地域の人たちもどうか無事でいて。

 

 

 

理不尽を訴える倫理観って難しい

 

 

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セヴァントロワのBLACK IS BEAUTIFULのブルゾンを無くしてしまい少しショック。実家にあるかな。

 

アメリカのBLM運動について、アメリカで生活している日本人が黒人・その他の人種差別について考えない態度を改めろという趣旨のツイートをしているのを最近よく見かける。しかし物言いが過激なのでいささか不快に感じる。差別をするなと言っているのに逆差別をほんのり感じる。‬

自分もマイノリティとして(マイノリティと自分で名乗ることすら恥ずかしさを覚えるが)、苦労することは日常で山ほどあるし、その現実について知って欲しいなと思う。社会が変われば、と求めたくもなる。差別的な態度(差別してるつもりはないのかもしれないけれど高低差を感じることがある)に対しても、ずっと怒ってきた。‬でもその苦しみを訴えるほど、過激になり、結局、相手に対して不快感を与える結果を招いている気がする。理解して欲しいのに、期待と裏腹に、反感を持たれてしまうのだ。そして、それは更なる差別に繋がる。誰だって、暴力的な思考の絶対強制‬はいやだろう。苦しみの対外的な共通言語・共通認識がないのは辛いし、余りにも不便だ。しかし闇雲に言葉を投げては(そうなるのも分かる)自分も馬鹿を演じることになるし、向こうも馬鹿者になる。そして馬鹿を演じれば演じるほど、その他と自分の問題を全て並列に見始める。これが一番危険なことだ。‬

‪なので、うまく表現できるまで発言しない方がいいような気もしている。でも、問題は常時、根深く流れ、皿を粉々に割りたくなるほどのストレスが存在する。実際に、何回か皿をぶん投げたこともある。辛さが何百年も続いている事を考えると涙が自ずとでる。‬よく彼氏に、マイノリティや苦労のある人はそうでない人より賢くなるし損をする。どうしてもその側面があると励まされる。スマートに生きろということなのだろう。100%同意できるけれど、心のどこかでは理不尽さと不便さに対して、毎日わたしは「ブチ切れている」のである。‬アメリカのことと自分のことは、別だとは思うけれど、黒人の動画を見て、ある日、朝から号泣してしまった。別だとは思っていても、感情の発露にどこか心当たりがあった。私は、暴力以外での解決の糸を一本引き上げるために、これからもずっと表現について考え続ける。そのために賢くなりたい。

にしても、PCを買い替えないと。書類を作ろうと思って、エクセル開いたらiPadでの縦書きは無理らしい。やることが制限されてるのよね。キーボードも感度悪いし。iPadっておもちゃやん。PCとiPhoneで十分。で、PCってアップル以外では何がおすすめでしょうか?ワード、エクセル、パワーポイント、HP制作(HP制作はもう少し後)にしか多分、使いません。HP制作ってするとなると画像処理もするのか?Photoshopは使えた方がいいのか…。やはり黙ってアップル買っておけ、なのか。てかHP制作とか業者に頼んだ方がいいのか?全てが分からない。にしても、まだまだタスクが固定化されていないのにPC買うの嫌だよ… 。お勧めあれば、Twitterのリプ欄に書いていただけるとうれしいです。

 

 

 

自己肯定感というメンヘラを悩ますパワーワードについて

 

自己肯定感というのは、「待ってもらった時間」なのかなと思う。

メンヘラを長いことやってきて、自己肯定感をつけましょうとか、親に愛されなくて自己肯定感が育たなかったのがメンヘラの原因とかいう言説を見ると、イラつく。大体のハウツーに書いてある。そもそも自己肯定感の定義を調べてみると、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自尊心、自尊感情と同じような意味で用いられる言葉である、らしい(Wikipediaより)。なぜ、私がこの言葉にイライラするのかというと、いくつかあるが、この自己肯定感という感情は、小さい頃から親や周りに育ててもらわないと得難いものらしく、それを逃してしまうとなかなか得難いものだそうだ。もう私は、時間を巻き戻して生まれた頃に帰ることができない。

自分に自己肯定感がないのだろうな、というのは感じており、かと言って自分のあり方を積極的に肯定していないかと言うとそうでもない。だって、自分に少しでもプライドや自信がないと人は生きにくいと思うし、そう一滴も思えないなら、当に自分は死んでると思うからだ。自己肯定感とプライド・自信というのは意味のちがう言葉というのも分かるけど。なんとも釈然としないふわふわした言葉だと思うのである。

自己肯定感がない自分が、困っていることは、怒りっぽくなるということである。自己肯定感とかいう言葉の意味はよくわからないが、その言わんとしてる感情がないと、怒りっぽくなり、人を攻撃し、全てを善悪で判断するようになるような気がする。で、解決方法は辿ると、自己肯定感がないからです、とハウツーに手遅れと言われているようで、なんとも救われない気持ちになり、自分の過去の状況を呪い、余計腹が立つ。正直、この言葉は全くメンヘラの根本問題をクリアにする言葉ではないな、と思う。むしろ、悩ましい言葉でしかないような気がしてくるのだ。

かと言って、とにかく怒るのが私は嫌で、いろいろと対策を講じて来た。だって怒ってもかっこよく怒れないんだもん。どういう対策を講じて来たかというと、まず怒らない。怒るという感情にまず蓋をしてみたり、怒っている対象に対して、逆にいいところを見つけてみようとか、逆思考を講じてみたりした。しかし効果はあまりなかった。人と接する際に、多分「怒ってないよ」「気にしてないよ」というような穏和な態度を取れる人が、特に日本ではありがたがられ、重宝されるように感じているが、半分賛成で半分疑問に思ってしまう。人付き合いをそれなりにしてみたけれど、人はある程度、自分の意志を述べ、自分が疑問に思っていることをかっこつけた言い方でもなく攻撃的な言い方でもなく、自然で等身大の態度で周りのことも包み込むように述べれるということが、必要だと感じたからだ。自分を抑え付け黙って我慢するのは、自分を擦り減らし、人間関係も両方破綻させる。

ということで、自分の気持ちに引っ張られず、上記のような態度で臨もうと思うと、一個一個、事態を検証していくということが大事なんだな、と考えるようになった。Aさんという意見の対立している人がいて、Bさんという仲裁に入っている人がいて、自分がいるとすると、一個一個、ゆっくり検証していく。Aさんの状況、Bさんの状況、自分の状況を共感ベースではなく、冷静に一個ずつ考えていくのだ。その上でまとめを作ってみて、自分にはできないこと・できること(事実)を伝えていくことをゴールに思考を巡らせていくと、大体、自分の怒りの感情や攻撃性は、伝える上で邪魔になり、冷静に気持ちを吐露できるような気がする。そして、明らかに弁護できないようなひどい人は、自然と自分の圏内から遠ざけるようになり、揉め事が起こりそうな人とは、揉め事が起こる火種をいくつかじっくり検討し、関わるタイミングを自分で調節する。あくまで、自分のペースを大事にして、蓋を開けたり、閉じたりできるのが大人の態度なのかなと思う。検証し、偏らないある程度バランスのとれた意見を持ってからしか、意見を呈さないと決めてからは、かなり気持ちの面で楽になった。

一つ一つ検証したり、タイミングを伺うというのは、時間がかかる。自分の怒りの感情が自然と冷め、冷静に検証できるまで、自分を「待ってあげる」のにも時間がかかり、検証できてから人に意見を呈するまでにも時間がかかる。多分、人付き合いが上手く、よどみなく話せる人というのはこの処理能力が一瞬で出来、交渉ごとでも大人のプロレスができるのかなと思うが、大人でも、人付き合いというのは、その場をなんとなくもたせて終わるか、しょうもない共感や言葉足らずの行き来でおわることが多いなと感じるから、なかなかこれらをしている人は少ないのかなとも思う。そもそも、私だって怒りやすいけど、怒りに蓋ができず、噴出してしまうから、こういう方法を取りはじめたのだと言えるし。

ということで、思考に幅を利かせ、冷静に自分と周りを検証していくということは、自分にゆとりを持たせ、時間がかかるということが分かってくると、自己肯定感を持ち心がニュートラルな状態の人は、小さい頃から「待ってもらえた」人なのかなと思う。急かされず、成長や期限を待ってもらえた人なんだと思う。ダメな自分を許してもらうというより、ダメな自分を「待ってもらえた」という言葉が正確というか。偶然かもしれないが、自分の周りのニュートラルな心の持ち主は、締め切りを破り続け、部屋も生活できない状態までギリギリまで放っておく汚部屋の持ち主がほとんどだ。彼らは信頼という言葉で私を待ち、自分のことも自分で待ってあげているような気がする。自分を待つというのは、いい加減なようで、心を健やかに保つのに一番の栄養剤なのかもしれない。

冒頭の理論に戻らないように書いておくが、私は自己肯定感もあまりないタイプの人間だし、よくよく考えてみたら、親に待ってもらったことがあまりない。次から次へと課題やタスクを与えられ、急かされ、成長グラフを描くように促されて来た。それは彼らのアグレッシブな人生の姿勢として、自分にとてもよい効果をもたらした所もあるが、逆に、常時、落ち着きのないユラユラした心をもたらしたとも言える。社会も待ってくれない、お金もなくなる前になんとか稼がないといけないというリミットがあり、大人というのは「待ってもらう」ことがいかに少ないことか。だから、大人になってから自己肯定感が育ちにくいと言われるのもこのためなのかもしれない。でもどこかでモタモタした自分を待つ状態を作ることは、できるのではないかと思う。メンヘラに焦りは禁物と言われるのは、焦りと待つが対義語に近いからなのかもしれない。しかし、自己肯定感って言葉はなんなんだ。よくよく考えたら、毎日彼氏に好きだよって言われ続けてるけど、内弁慶で、外に出たら人が怖くておどおどしてるわ。愛された量じゃないのかもしれない。待ってもらった、待ってあげた時間の量なのかもしれない。待ってもらうのに、愛情がある方が待ちやすいってだけなだけで。でもさ、自己肯定感なんか、そんな悠長なもんなくても生きていけるって。生きていくしかないし。毎日、一個一個自分のやったことを確認して、褒めたりして自信つけていけばいいだけの話。無闇に褒めるのとは話は違うけど。お互いにお互いを待ち合って、自己肯定感なくても、醜いところ見せながら奮闘して生きていきましょうや。部屋が汚なかったり、体が臭くても、ある程度はいいじゃないか。あと体調悪いと、怒りっぽくなるのは仕方がないです。精神性の問題ではない。根気のいることだが、何事も自分を待ってあげよう。

フジコヘミングってすごい、など

 


フジコヘミングってすごい

ピアノの良し悪しをよくわかってないし、ピアノを弾ける人って全員すごい!という感じなので、クラシックは「それなりに」聞いたりはするが、好きな演奏家はいなかった。

が、去年、フジコヘミングのドキュメンタリー映画を自宅で見ようと購入した。たまに見ている。は〜ん、フジコヘミングの家とか諸々って素敵ね〜くらいのミーハーな気持ちでしか鑑賞していなかったのだが、なんていうかある時、ピアノの音がつぶつぶ(粒々)してるな〜とハッと気づいた時があった。これが、俗に言う音の粒か〜〜なんて感動した。

自分は性格が悪い面倒なやつだな〜と自己嫌悪に陥ることがあり、でもフジコヘミングを映像で見る限りは、なんかおっかないおばさんにしか見えないし、「嫌な奴が必ずしも悪い人間ではない」のかもな〜とも思ったりもした。お前何様やねん!フジコヘミングと自分を一緒にするな!って突っ込まれそうだけど。

でも、「いい人そう」な人が、人間的に成熟しているとは限らないというか、別になんにも考えていないだけだったりもするし、ま〜人間なんて一概にこの人はいい!とか悪い人間だ!みたいな風に決めつけれないからおもしろいんかな〜みたいに思った。

 

怒るのをやめた

友人によく怒ってしまうという旨の悩みを吐露するくらい、この2、3年はよく怒っていたが(瞬間湯沸かし器ならぬ、永久湯沸かし激おこぷんぷん器って感じ)、激しく怒るのをやめた。怒るのって損かな〜〜と少し思っちゃったし(正しそうなことを言っていても、怒りながら話すと、怒っている醜い姿が印象に残る)、自分も、怒らせるようなことをする人も、怒り怒られのアレコレって、その人の弱さの現れなんかな〜と思った。弱っている人に怒るのって不毛じゃない?的な。それでもイライラすることはあるけど…ん〜まぁでも最近はそんな怒らずに済んでいるような。

 

マークロンソン が好き

マークロンソンの何事も意に介さなさそうな雰囲気がとても好きで(怒らなさそう)、とてもかっこいいと思うのでマークロンソン のインスタ をフォローしてみたけど、英語がよくわかんなかった。ただ、タートルネックのお洋服にハマっていることだけは分かった…。

 

 


服のことについて

最近、服界隈ではパクリ問題とサステナビリティが流行。あんまり価格破壊ってよくないのかな〜とは思う。買う人にとって一時いい事だとは思うけれど、長期的に見るとどっちも損な気がするような。

というようなことを宣うと「高級な服しかダメ」みたいな人間に思われるかもだけど、そんなこと全く思ってないよ。矛盾してるかもしれないけれど。サステナビリティってまじめにやろうとしたら、かなり大変そうだなぁという印象。持続可能な、って、環境や人材に配慮することだと「私は」思うんだけど、みんなに優しくするってことなのかなと思う。みんなに優しくするって、大変じゃない?商売でも「みんなが良い思いをする」ってなかなかなくない?どっかズルをしてたりするじゃない。

人付き合いとか、みんながなるたけいい思いをするようにと、行動しようとしているけど、めちゃくちゃ厳しい条件だなと思う。「みんなが良い思いをする」って。

 

基本的にネットがないと生きていけない

ネット依存症だと思う。昔入院した時も「ネットって繋がりますか?」とか聞いてた気がする。中学生の時もメル友と一日中やりとりしてた。元々好きだった写真を撮ることが、最近よりいっそう好きで、一日中スマホで写真を撮っている。そんな気にしてないけど、自分の場合は一日の家事とか用事をやるのを、なんかスマホでごまかしごまかし、誘導してるきがするな。
幼稚園くらいの子どもが、おもちゃとかに意識を向けて、なんとか来てもらいたい方向に来てもらうようにしていること、あるじゃない。あんな感じで、私にとってネットは、おもちゃ(ごまかし道具)なんだよね。のわりには、SNSの賢い使い方も分かってない…。


アジアン料理を上手くなりたい

昨日作ったルーローハンがおいしかった。アジアン料理うまくなりたい。でも、アジアン料理の正解ってネイティブじゃないから分かってないな。私が作ったルーローハンも、台湾の人からしたら、邪道なのかしら。でもおいしかったなぁ。

あと、ちょっと話が逸れるんだけど、この間、辻仁成の「パリの息子メシ」というレシピ本を立ち読みしたら、料理の写真とか、巻末に乗ってる辻仁成自身の近影も、全部スマホの写真で少し驚いた。パリからスマホのデータ送って日本で本を作りました、という感じ。でもよさげな本だから買った。

 

自炊と健康の話

これも料理関連の話なんだけど、私は料理をするのが嫌いだ。あと野菜が嫌いだ。一日料理だけしてればいいって言うなら、喜んでするけど、他の用事と料理が組み合わさると、一気に嫌になる。

自炊して色とりどりの野菜を食べて健康になるか

外食で料理のストレスを無くすか

の二択だと思うんだけど、結局プラマイゼロな気がする。自炊してイライラしてるか、外食して油塗れの炭水化物をとってるか…どっちもどっちだよな。

節約になるから自炊の方がいいのでは?、って感じだけど、二人分だと外食の方が下手すると安かったりする時ない?(マクドとかすき家とかの場合) 高級レストランとかも興味ないし…。でも、彼氏や家族に煽てられて今日もごはんを作る私であった。あっ、パーティーとかの料理は好き…大きなモチベーションがないとがんばれない。

 

YouTubeの子ども向けコンテンツがリスト化できない

びっくりした。リスト化できないんだね。あと、画面小さくして観るのもできない機能になってるんだね。リスト化できないのってなんでなんだろう。と思う。

 

 

ミモザというお花がかわいい

めっちゃかわいい。見てたら心がほくほくする。

好きなお花…チューリップ、あじさい、ミモザラナンキュラスコデマリ、針葉アカシア かな。好きなお花はなんですか?

 

基本、楽しいことは話題にしたくない

みたい。ここまで、文を書いてみたけど、私は基本的に楽しい話題はしたくないみたい。まぁ妬まれるのが嫌なので、暗い話題を提供することに余念がないのもあるし(心の闇)、仕事おもしろいけど、そもそも仕事の話なんて機密情報いっぱいだから、こんな所で書くのもな…。かと言ってニートと思われるのもなんかな〜(恐怖)って感じなので、一応やってますアピールしてるけど、好きな行為ではないですな。でも妬まれたりするのはもっといやだ。まーもういいけど〜〜〜。しかも、ほんとに休憩時間がイライラするくらい、楽しくて好きなんだけど、仕事が楽しいって聞く人によってはキモイなーとも思うだろうし。自分でも今何してるのかよくわかってないですけど…。楽しく生きてます。ご安心ください。

 

最後にビリーアイリッシュ、グラミー四冠おめでとうございます!