デブを改めたい。

双極性障害Ⅱ型と診断され7年。身も心もスッキリしたい。

人間は歩く金なのか

 

「うつで休職中の人が、友だちと遊んでるのを非難してくる奴の意味がわからないな。うつ中に遊ぶこと、私はメリットしか思いつかない。」という数年前の文がツイッターの下書きに未だにある。

仕事を休んでもうすぐ2年になる。というか私は総じて仕事を1年続けたことがない。もちろん就職もしたことがない。半年ほど働いては、半年休むということを繰り返しているのでフリーターの風上にも置けない。そんな感じの生活をして来たので、どうも悠々自適な暮らしをしていると思われるらしく「働かんでいいなぁ」「私もニートになりたい」という言葉をそれはもう数えきれないくらい頂いてきた。その度に罪悪感を感じる自分がいた。

何をおっしゃいますやら。無職で不安を感じない人間っているんか。不安に決まってるんですけれど。悩むに決まってる。むしろ無職の時期に将来を心配するのは地獄といっても良い。このような言葉をかけてくる人は全く責任感なく言ってくるので、相手にしなくていいですよ。その人に生活費を払ってもらっているわけでもないし面倒を見てもらっているわけじゃないのだから。労働するにしても労働しないにしても、決めるのは自分だし、どちらを選択しても返ってくる結果やリスクは直接自分に戻ってくるのだから。事情も知らず軽口を叩く人の意見は無視が鉄則です。

今回、休んでいる期間にこれからのことを考えてはみた。とりあえず自分の目標として長く続けられるものがいいというのが切実な願いであり、そのためには無理なくできるものがいい。無理なくできるものと言ったらやはり頂くお給金も少なくなる(ものが多い)し、「お金 」と「無理なくできるもの」のバランスを考えながらいくつか候補は挙げてはみた。あと新しいジャンルのことにはあまり手を出さないでおこうという制限もかけてみた。それは手を出し尽くした感があった。
いくつかの候補のなかに、「いままでやって来た一番好きなこと」を続けるという選択肢も一応はあった。でもいままでやって来た一番好きなことは、これから先細り感しかなく業界でも苦戦の声が聞こえてくる。ニーズもあまりない。飽和し過ぎてしまった業界であることは間違いない。そして輪をかけて才能もない。才能や技術がないのが手伝って、余計金にならない。金にならないと思うと、生活していけない、生活していけないとなると価値がないと思い、選択肢から外そうとも思ったし何よりやる気になれない自分がいた。そう、私は根性がない。

いままでやって来て一番好きなことに価値がない、と思い始めると、気持ちに張り合いがなくなる。いままでやって来た大事なものをゴミに変換すると気持ちもクズになる。「もうお金にならないし一番好きなことをやるって難しいよね〜」なんて周りに漏らしていた。
と、自分がジトジトしていた頃、テレビでセブンルールという番組を偶然見ていたらタスカジという会社の人が特集されていた。タスカジというのは、家事代行マッチングサービスのことである。言わば家政婦さんの働く職場で、家事代行業者を介する必要がなく家政婦さんに出会えるという。掃除、料理、チャイルドケアなどジャンルごとに得意な人が所属していて、働くのに登録するのも簡単、依頼するのも気軽に探せるらしい。家政婦とは書いたが男性も登録もできる。番組で放送されていた働く家政婦さんたちは生き生きとしていたし、みんなが意見を出しあって大事なことを決める、一人一人の働き手が重んじられている様子だった。そしてマネージャーの鈴木さんは主婦稼業をやりながら働くことの大変さをとても理解していて、「なにげなくやっている主婦業でも、よく見るとすごいスキルを持っているんだから後ろに引っ込まないで自信をもっと持って欲しい」という言葉が印象的だった。
まず家政婦さんを頼めるなんてどこのセレブがやるんだよ、ざあますマダムが頼むものでしょというイメージだったのであんまり大きな市場ではないと思っていた。びっくりしたし、自分が毎日当たり前のようにやっている日常のことがお金という価値に変換されているのを目の当たりにして、自分の心のサビが取れたような気がした。

「ものは考えようやな」と思った。まず自分がやって来た一番好きなことは、価値のないことなのだろうか?自分が日常的に当たり前と思ってやって来たことがお金にならない、イコール、価値がないと思うのは、それは果たして本当だろうか。真理なのだろうか。自分が生きてきて身につけてきたことは価値のないことなのだろうか。そんなふうに思い直すようになった。もしかしたら自分の中に宝が眠っているかもしれない。もし自分だけが大切にしていてみんなが軽視しているものを続けたとする。いつかお金に変換されたらカードがひっくり返ったように、みんな手のひらを返して私を評価するだろう。その大切なものも評価されるだろう。お金に変換されるのが、みんなが一番分かりやすいからただの評価基準としてただ重きを置かれるのであって、絶対的な基準ではない。お金に変わるのは後づけであって自分の大切なものは、純粋に大切なものである。それを完全に忘れていた。自分の悩んでいる働き方も、やりやすい方法を見つけて出力していけば、みんながアクセスしやすい方法になる可能性も高いし、自分がやって来た一番好きなことを一回腰を据えてやってみようか、という気持ちになったのである。

ということで、自分がやって来た一番好きなことが、趣味で終わろうと仕事になろうと変わらず大切にしようと私は思った。自分の大切なものは、大切なものなんだから。
自分の信じるものを周りに決めさせてはいけないし、相対的な評価で決め始めるとあっけなくそれは崩れやすく脆いものになってしまう。自分の信じるものは、時間をかけて大切に磨いていけばいい。ということで最近、少しずつがんばっています。

そして考える時間の余裕が与えられていることは感謝しても感謝しきれないです。助けてくれる周りに頭が上がらない毎日です。この部分は「恵まれている」とボッコボコに叩かれても言い返す言葉もない。

 

最初にうつ中に遊ぶことにメリットしか見出せない、と書きましたがマジでメリットしか思いつきません。外に出かけて人と待ち合わせて話すことが、時間が不規則な生活をしがちな患者の社会復帰への一歩になるというのが非難する人には分からないんでしょうね。あとうつの人って夏休みのようなバカンスを取って、好き放題遊んでる自由な人ではないですからね。実際は、体もしんどいし不自由なことも多いし制限だらけの生活ですから。そこをはき違えてわけのわからん軽口を叩かないであげてほしいです。

 

 

 

体型に絶対的な美的基準はない

 


肌見せの季節ですね!

 


この前、フィルムカメラを現像したらキャミソールを着た白いブタが写っていたので痩せようと思いました。

 

摂食障害の時に、外来やカウンセリングで「痩せる」を「引き締まる」、「太る」を「ふくよか」という言葉に置き換えられるのが嫌でたまらなかった。「バランス良く食べましょう」という栄養士の言葉に身の毛がよだった。私にとっては「痩せる」は「最高」で、「太る」は「デブ」であった。キレイゴトを言ってんじゃねぇよ、もっとダイレクトに話してよとイライラした。あの頃、嫌でたまらなかった気持ち、抵抗したかった気持ち。診てくれた先生方にやっぱり10年経ってもたまに思い出しては反抗したくなる。

 

今、痩せたいという気持ちを否定されたような気分になって嫌な気持ちになってる子に援護射撃を、まずは打つとする。

 

太りすぎると着る服がなくて困る。

この国の洋服、サイズが本当に限定されている。痩せてる時は大抵の服はかわいく着こなせる。いくらでもある。そりゃ、痩せてる方がカッコイイと我々が思うのは仕方ない。当然のなりゆきである。

 

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日本は太っている人のためのセクシーな服・かっこいいモードな服がまず、ない。私が見た限り、数が少ない。百貨店の大きなサイズコーナーも参観日みたいな服ばかりだし、「ふくよかな人のためのかわいい服」と言えばハリセンボンの春菜さんや森三中の村上さんがよく着ているポップな服に偏っている気がする。まず、太っている女芸人はいても、太っている綺麗めな清く正しい女優はテレビに出てこない。

パキッとしたブルー、赤など明るい色。チェックや水玉のような子供っぽい柄。ワンポイントでブローチやリボンをつけるのがお決まりと言ったところ。テレビ映えはするんでしょうけど、なんせチルディッシュで、美しいというより可愛いに限定されているような気がする。

でも自分自身、太ってみてサイズ大きめの服を試してみると確かに明るいカラーの方が、膨らんだ顔や体はパキッと締まって見えるので、ある程度の理には叶っているっちゃあ叶っているのだけれど。

例えばだけど、ネイビーのデコルテが綺麗に見える、スカート部分はふわっとしたふくらはぎの一番太いところまで隠れるようなラップワンピースとか、どうだろう。太っている時、あったらいいな、と思った。フォクシーやセオリーをもうちょっと崩したようなシャープでモードな空気感がある洋服。そんな服私が太っている時はない。なかった。ただZOZOがPBを始めたのである程度は改善されるとは思う。

 

自分は服を作っているが、パターンを引いてるとふくよかな体型になるほど曲線がゆるやかになっていくのでシャープなシルエットを出しづらいというのも現実として、ある。あと清潔感が手に入れにくい。確かに細いほうがスッキリは見える。既存のブランドが提示するモデルの子も細い。もう何十年も前から。

 

以上のことを踏まえても、ふくよかな体型でオシャレする方がどう考えてもハードルが高い。テクがいると思う。手の込んだことを沢山しないといけないように思う。どう考えても太ってるのに素敵な服を着こなしている人の方がオシャレ上級者だと思う。それくらい難しいことだと思う。痩せてるほうがいいか、太っているほうがいいかの二択だったら後者がすんなり淘汰されても仕方ないとも思う。この世界では、痩せてるほうが色々と手っ取り早い。世の中の女性が「痩せたい」と切望するのはごく自然なことなのだ。

 

この世界のスタンダードが「細い」に限定されてるから。そうでなくてもあなたの生まれもった美的感覚が「細い」ならそれは変えようがない。変え難い。それは否定されるべきではない。

 

 

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でもふくよか・太ってるのはなんも悪くない。体型に善悪はない。体型に道徳的基準の善悪はないのだ。上の写真を見てほしい。こういう世界観も一応は、ある。これはlonelyというニュージーランドの下着ブランドのヴィジュアルである。「ふくよか」「太っている」に対する認識がお外の国では全然違うな、と思う。この国でははふくよか=暑苦しい、悪い。まずこのような体型の女性がモデルになったり肌見せするような写真はこの国では撮らない。この写真の女性はセクシーでさわやかで美しい。紹介はしておこう。

 

もう一度言うけれど体型に善悪はない。太ってその変化を、みんなに興味本位で指摘されたり冷やかされるのはそれこそ道徳的に悪、だと思う。人間はその時々の環境、ホルモンバランスによっていくらでも体型は変化する。特に女性は。だからあんまり前後する体重をその時その時でスポットスポットで、否定しすぎないで欲しい。落ち込みすぎないでほしい。いくらでも健康を害さない限り、痩せてもいいし太っても構わない。それを人にとやかく言われる必要はないし、増してや良し悪しを決められるべきではない。というか、第三者が体型の変化に軽口を叩くな。自分が一番体の変化についてセンシティブなのだから。自分が一番分かってる。痩せているのが美しい、太っているのが美しいという価値観は限定的なものではない。フレキシブルなものである。

 

でもただ一つ、こと体型においては急激な変化でなく、ゆるやかな変化を描いてほしいと思う。変化するのは何も悪くない。また、多様性が謳われるこの時代に、「痩せ」は良くて「太ってる」は悪という考えは時代錯誤も甚だしいとは思いはする。自分の美的感覚を人に押し付けないように。

 

ピンクがかわいいと思う人もいれば、苦手だと思う人もいる。犬がかわいいと思う人もいれば、嫌いな人もいる。それと同じくらい人それぞれの価値観だよ、美的感覚って。自分の中では絶対でも、外の世界に出ると意味をなさないようなものです。本当に。

 

 

※暑さで脳が研ぎ澄んでないせいか、ブログのテーマである持病について書こうという気になれない。というか、持病のことになると思いや事象がいくつも連鎖してどこを切り取って書けばいいか分からず最近挫折してしまう。自分の書きたいことを書くのが、今 ハードル高い。今日の話題にしても、もう少しちゃんと書きたかったけれど、なんかまだ時期尚早だと思い、軽めにしました。ふくよかや太っているということを肯定する文言や文章を見るだけで辛くなる人もいるのも分かっています。不快になったらごめんなさい。終わり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ねこ観察日記

 

 

猫を飼っています。バスト100ウエスト100ヒップ100cmの大きな猫を。

猫を飼うのは初めてのことなのでおどろきの連続、というかイライラの連続が毎日たくさんあります。犬は実家で何回か飼ってきたんですけどね。
犬はうれしい時しっぽをこれでもかと振り回して飛び上がるし、悲しい時はしっぽが垂れ下がってる。かわいい。とてもかわいい。でも猫はいつ目を向けても表情変えず乾いた声でニャーゴとしか言わない。こちらが構っても「別に?」って感じで意に介さない。たいがい丸まって床でじーっとしてる。ごろーーん、のびーーっ。うちの猫はとにかく積極性がない。まるまる太ったふわふわの白猫。模様はありません。

 

猫って目を離した隙に家から出て行くんですね、いつも突然いなくなるのでびっくりします。飼い主としてはオロオロする。2、3年前神戸に旅行に行ったときのこと。猫も連れていったんです。お天気も良くて神戸のいろんなところに行けて楽しかったなぁと満足し、その日私は床につきました。夜中の2時頃、目が覚めました。そしたら寝る前までは確かにそばにいた猫がいないではありませんか(!)。焦ってホテルの部屋中探しました。ベッドの下、クローゼットの中、家具と家具の間までも。部屋中ぐるぐる回りました。でもいなかったのでいよいよ心配になり不安になってきました。夜中なのに一体どこに行ったん…?今、夜中の2時やで…?とにかく行き先が思いつかない。冷や汗が流れる。一応、うちの猫には携帯電話を持たせているので電話をかけました。応答なし。LINEしました。既読つかない。途方にくれて20分ほどおろおろしていたらやっと猫から電話がかかって来ました。
「今、ラーメン屋にいってる ゴロニャ〜。」
翌朝聞いてみると、昔から贔屓にしている深夜営業のラーメン屋に行っていたそうです。しかもホテルから距離5Kmほどの。しかもしかも徒歩で。
夕飯にイタリアンでピザとかパスタ食べたやんか!だから…!太るねん!!!!!!!!!


うちの猫はテレビが好きです。ずっとテレビの前にいます。そこが彼の定位置です。あとボールが転がるのを見るのが好きです。FIFAワールドカップが始まりましたね。飼い主の私からすると地獄です。そんな飼い主の気持ちもそ知らぬ顔で、猫はずっとテレビに張り付いています。朝の5時くらいまでワールドカップを延々と。私の寝室にテレビがあるから最悪です。
いつもはやる気も情熱もさほどなく、感情を表に出さず、喉を鳴らしてじっとしている猫ですが、この前久しぶりに携帯電話を見たあとシャー!と爪を立てて怒り始めました。怒るなんて珍しいな、友猫とのやりとりでケンカでもしたんかな?と思って問うてみたら「明日仕事が22時まであることが分かった。日本対コロンビア戦が観れない。終わった。」とのこと。その情熱を普段の生活に使いなさい。
試合のスケジュールをチェックし試合の前にシャワーを浴び観戦用にドリンクを買って来、用意する始末。飼い主との普段の生活にその情熱を使ってくれ(2回目)とテレビを見てるそばでイライラしながらこちらは眠りにつくのですが、夜中に目が覚めたとき、暗闇の中でテレビの光が反射し白々しく光るずんぐりむっくりした物体をみると、たまに寝ぼけて幽霊かと勘違いしひぃぃぃぃぃと悲鳴をあげてしまうことがあります。猫もびっくりしてます。自分が怖がらせてるのにね。恐ろしいから夜中のテレビ鑑賞はやめてくれ…。
そんな感じで私が起きる時間に猫は寝るという生活をしているのですが、起き抜けにキッチンから夜中食べたであろうインスタントラーメンの匂いが漂ってきたり、ゴミ箱の中に夜中舐めたであろうアイスの空袋を見つけるとまた私はイライラしてしまうです。
だから…!太るねん!!!!!!!!!!!

今日もまた舌打ちが止まりません。

 

※この話はフィクションです。ただ猫の頭皮がテレビの光をよく反射するのは本当です。

 

 

 

 

ピアノ教育に興味がある

 

 

 

「ごきげんいかが?どんな服を着ているの?お通じはまだいいかい?快く仲直りをしてくれない?さもないと、ぼくの名誉にかけて、バーンと一発やらかすぞ! どうせきみは笑っているな―万歳(ヴィクトリア)! 僕らのお尻を和平条約調印のしるしとしよう!」


モーツァルトの手紙より

 

最近、ピアノ教育に興味がある。

というのは、クラシック界に名を残したスター達はどう考えても社会に適合できないクソダメ人間が多かったからだ。音楽がなければただの人、というよりは音楽がなければ人として終わってるという感じ。

彼らには豊かな才能と突出した集中力があったに違いない。彼らは特別な人間であって我々のような凡人とはかけ離れた存在だ、と言われればそうなのかもしれないが、果たしてそうなのだろうか。

私は19歳くらいまでピアノを習っていたが、ピアノって毎日、何時間もやらないと上手くならない。当然私はできなかった。子どもが毎日何時間も同じことをやり続けるのは結構至難の業だと思っていて、やり続けることはできたとしてもモチベーションを保つのもまた更に至難の業。彼らの親はどういう教育を施していたのだろう。(パワハラ的な世界があったにはあったのだろうが)

私は彼らの中にはADHD的気質を持っていた人達が結構いると思っていて、数奇というか苦労の耐えない人生を送りながらも、一つのことを続けてきたというのは、彼らを見習って真似できることがたくさんあると思う。

 

楽家達のクソダメエピソードを聞いていると、「できる人」というのは「どこかが欠けている人」なんだと思う。そう言われてみれば私自身、周りのできる人で全てが完璧な人を見たことがない。

まずできる人というのは何だろう。できる人の定義はたくさんあるのだろうけど、どの定義のできる人であれ共通しているのは、「続けることができる人」「辞めどきを知っている人」だと思う。あんまりやる気だの根性だのは関係ない気がする。

できる人は、まず休むのが上手い。自分を甘やかすのがとても上手い。あと結構自分勝手な人も多い。「なにかが欠けていることに躍起にならない」。足し算より引き算思考の傾向が多い気がする。やる気と根性、完璧主義は最も遠ざけていいものだと思う。 

 


自己啓発的な本で、やる気を鼓舞する本はたくさんでてるけれど、もっと「良い休み方」「手の抜き方」「上手いサボり方」とかそういうテーマに焦点を当ててみた方がいいと思う。「できるとアッパラピーな生き方の両立」とか。やる気なんて大概の日本人はあるって。真面目な方だって。

尊敬する人がいたら、その人の仕事のやり方だけを真似するんじゃなくて、その人の休み方やダメな部分も観察したほうがいい。と思いますよ。

 

 

かなり駄文にはなってしまったが、映画「シャイン」を見ていたら、ふとそんなことを思ってしまったのである。(シャインは天才ピアニストデイヴィッドの人生を描いた実話映画。興味がある人はぜひ)この映画を見てると幼い時の自分を見てるようで辛かったし胸糞悪いのオンパレードだったのだが、ラストの方でいい風になっていく。デイヴィッドは精神が崩壊することでそれまでの何かが「欠けた」。そこから本当の自分を取り戻していく。ラストに注目して見てもらいたい。

 

 

 

 

 

 

知りたかった今日

35歳で死にたい。

 

そう真面目に思っている。生きてるのは楽しいけれど、やっぱり辛い。辛い部分が今の私には多すぎるのだ。毎日の体のコントロールは思いの外しんどい。キツイ。以前のブログにも書いた通り、このしんどい毎日があと50年も続くのなら、体のいちいちのことが気にならない5年を過ごして、35歳のある日ポックリ行くほうが幸せに思う。心からそう思う。

 

でも私は寿命を決めれない。

 

35歳で死にたいとか実際に友達やいろんな人の前で言っちゃったら、周りの罵声しか聞こえない気がする。命を無駄にするな、生まれたことに感謝しなさいとか、そんなありきたりのこと。

 

よく「あなたが生きてる今日は、誰かが生きたかった今日なんだよ」という自殺を食い止めるキャッチコピーのようなものが存在する。ありきたりだけど、結構腑に落ちてしまいそうな言葉だ。命を無駄にするな、より説得力がある気がする。

 

でも全く私には届かない。なんていうか、そんなこと知らねーよ、あんたの生きたかった今日を生きてるわけじゃないよ。私は私のデコボコ道を今日は今日とて生きてるわけで、あんたの人生を歩んでるんじゃないよ。あんたの人生だったら私も死にたいとすら思わなかったかもしれない。ハッピーな人生で羨ましいわと思ってしまう。(全部がハッピーな人生なんかないのも知っている みんなも苦しいことがあるのも知っているけれど)

 

でもある日、私は誰かが生きたかった今日を誰かが知りたかった今日に置き換えてみたらまだ、心にすんなり落ち着くような気がして来た。なんかそっちの方が共感できる気がする。

「あなたが生きてる今日は、誰かが知りたかった今日なんだよ」こっちの方がすんなり来る。


確かにある日ポックリいっちゃえれば、それはそれでもう願っても無いことなんだけれど、まだ私がみっともない毎日を過ごしながら死んでないのは「知りたい」という気持ちがあるのだと思う。それは死なない理由の一つではあると思う。

 

例えばだけど、友だちの子どもがどんな風に成長するかはかなり気になるし、生き続けた結果私はどんな人間になるんだろう 無職のままか 何か人に役立つことができているのだろうか、なんて自己実現のような欲求もまだあるみたいだし、ババアになったらどんなファッションをしてるのか 2050年のファッションはどんな流行なのか(私はファッションが好きだ)、とかもちょっと見てみたくもある。彼氏はどういう感じでくたばるんかな、とか。(彼氏は呑気な人だから苦しんでる姿が想像できない)

 

良い天気のときに、心地よい風に吹かれて気持ちよかったりすると案外生きててよかったなんて単純に思う。私は今の季節のような風にたそがれてぼんやりする時間が大好きなのだ。

 

死んだ誰かが知りたかったこと
死んだ誰かが感じたかった今日のサイコーな天気

とかなら、なんか、腑に落ちる。


知りたいことがまだ私には少なからずあるな、とは思う。死にたいくらい悩んでる人ってなにか答えが知りたくて悩んでることも多いし。人って結構「知りたい」に突き動かされているんだなぁと思う。

 

でもなかなか生きること、すなわち健康を維持するのって難しい。今日を生きたいと切実に願う人も、今日死にたいと希望する人もどちらもいろんな意味合いで健やかでないのは共通している気がする。命ってグラグラ揺れてるんだね。きっと。

 

 

 

人間関係はフェアプレー

 

 

 

最近、「心を患ってしまった人 対 それをケアする人」のバトルについて相談されました。簡単に言えば、鬱になった人によかれと思って相談に乗っていたら鬱の人に暴言を吐かれて自分自身の心が参ってしまったという話です。この手の話が多いな〜と思ったので今日は書いてみようと思います。

 

うーん、悩ましい。
何故私がこの手の話を聞いて「悩ましい」という感想になるかと言うと、どっちの立場の人の気持ちが多からずとも分かるからです。つまりは、暴言を吐かれた人の気持ちも分かるし、鬱の人が暴言を吐いてしまう状況も分からなくはないからです。私は中立の立場をとってしまう。

 

鬱になった時に、周りが色々アドバイスしますよね。「外に出てみたら?」「しばらく仕事休んでみたら?」などなど。私が経験して感じるのは、どのアドバイスに満額回答なんてないってことです。「外に出てみたら?」というアドバイスに対しては、外に出れるだけの体力がある患者さんもいますし、外にも出る体力もない家で篭るしかないっていう患者さんもいる。「仕事休んでみたら?」というアドバイスにも「仕事休んでいいんや」とホッとする人もいれば、「仕事なんて休める状況じゃない。そもそもお金のことはどうするんだ」って逆に怒っちゃう人もいる。

このアドバイスのちょっとした行き違いでもトラブルの元になることもあるなーと。

鬱の時ってただでさえ気分もどんよりしてるし、視野も心の度量もなくなるから、他人から言われたことをただでさえマイナスに受け取ることは多いな、と。他人から貰ったアドバイスでさえも最悪のパターン、「攻撃された」にすり替えてしまう場合もあると思います。なかなかプラスに受け取れないですよね。自分はこんなに苦しいのに、周りは無責任なことばっかり言いやがって。みたいに思っても仕方のない状況、といいますか。

 

 

でもね、自分は病気だからといって暴言を吐いてもいいのか?という問いに関しては、全力でNOと言いたい。それは、自分の病気を凶器に変換して相手を攻撃しているのも同然です。
そして、ケアしてる人も自分の言った言葉で鬱の友だちや家族を余計傷つけてしまった、と自分を責めないでほしい。さっきも言った通り、この状況の患者さんに対して満額回答のアドバイスなんてないんです。ほんとに。患者さんの言うことに全部寄り添うことなんて絶対無理です。それはスペシャリストと言われている精神科医やカウンセラーの方でも無理なんだから。素人のあなたができなくて当然と思って頂ければな、と。というか側にいてくれる優しい気持ちだけで、どんなに励みになることか。

 

とは言うものの、自分が攻撃しているかどうか、暴言を吐いてるかどうかすら分からず冷静になれない患者さんもいるし、精神的な病気に対する理解もなくて肩身の狭い思いをすることもあるので、健康な人を妬ましく思ったりしてしまうのも仕方のないこの社会の状況…とも思うので、ほんとにこのケアされる側とケアする側の間で起こるトラブルは難しいなと、毎回聞くたびに思います。両方の気持ちが分かるだけに。

 

でも、この難しい問題を解決するための魔法の言葉があると思います。それは、「ありがとう」「ごめんなさい」を使うということです。そう、幼稚園に帰るのです。
もし周りに暴言を吐いてしまったり、当たってしまった時、その時即座に言えなくても、時間が経ってからでも「あの時あんなこと言ってごめんね」と言いましょう。「いつも一緒にいてくれてありがとう」とも。
「自分が今しんどい状況なので、心配させるけど見守ってね」など素直にお願いしましょう。そう言われるだけで、ケアする側は救われます。あなたも友だちや家族を失わずに済みます。案外簡単なことだと思います。

 

 

「病気だから、障害者だからなんでもしていい・言いたい放題言っていい」っていうのは、やっぱり違うと思います。それって健康な人を逆に差別していませんか?あなたが自分の病気の理解のなさを嫌がるのと同じように、あなたも健康な人の気持ちへの理解がないと思いませんか?健康な人だって気持ちがあります。普通に傷つくし、失敗することだってあります。人間関係はどんな場合もフェアプレーです。フェアプレーが出来ず、相手に言い過ぎた時は「ありがとう」と「ごめんね」をたくさん使いましょう。

 

 

長々、正義の味方みたいに書きましたが、私も暴言を吐いたり 喧嘩したり 人間関係の縁が切れるということを沢山してきました。沢山の失敗をしてきて、沢山怒ったり悲しい思いをしてきた上で、やっぱり「人間関係はフェアプレー」だと思うのです。

 

 

最後に完全なるわたしの独り言だけど…。
なんか…Twitterのプロフィールに「我はADHDだ」「我は双極性障害だ」などと障害名を掲げておいて、ツイートは言いたい放題の方を見かけるんですが、それってどうなんかな?と。言いたい放題の背景として社会で平等に扱われていないというフラストレーションをすごく感じるのですが、そんな言いたい放題して病気の理解が広まったり差別が無くなると思ってるのかな?とたまに疑問に思います。逆にそんなことしたら、私達は煙たがれるのでは?
自分の非があるごとに、病気を言い訳にする人も頂けないな、と。病気と関係ないことでも、病気を言い訳にするのってどうなの?
はっきり言って、病気に対する正しい理解を啓蒙したい側からすると、やりたい放題の方の存在は迷惑でしかありません。怒りすら感じる時がある。


ツイートも人間関係も基本はフェアプレーだと思います。病気という切り札は、正しい場面で正しく出しましょう。

 

デスノートに書かれて消えたい



不安。いつになれば穏やかな日が来るのだろうか。そんな日は来ない、嘆いたって仕方がない。与えられて生きなさいと言われた病気だから黙ってやり過ごすしかない。


でもたまにやり切れなくなる、というか治療にめげて疲れてしまう。


みんなが当たり前にしていること、一つ一つを行動に起こすのが怖い。例えば、人に連絡すること一つにしても躊躇してしまう。LINEで元気?と聞く程度のコミュニケーションだって躊躇するのだ。いちいち連絡する前に悩んでしまう。「人とコミュニケーションを取って 傷つくのが怖いから連絡するのに躊躇してしまう」という理由だったらまだかわいい方だと思う。そんな不安、少女漫画みたいやんけ、と思う。「人と連絡を取って それを引き金に躁状態になったらどうしよう」と不安になってしまう。連絡することそのものが恐怖なのだ。おかげさまで人と連絡をとることも億劫になってしまい、コミュニケーションを取ることが圧倒的に減ってしまったため、ちょっとお茶するだけでもすごく体がこわばってしまう。辛い。


とにかく生活の細々とした部分で、躁と鬱のちょうどいい間にいれるよう、自分を意識的にコントロールする作業が疲れる。すごくエネルギーを割いてしまう。クタクタになる。

週に一回くらい 自分を操縦している自分自身というものに疲弊し訳が分からなくなって、こんな生活が続くのかと思うとゾッとする。


正直こんな不安でクタクタになる生活があと30年続くのならば、私は病気の不安がない安心した生活を1年送って死ぬ方がマシだって思う。

自分の身体のことを気にせず、やりたいことを気にせずやれる人間らしい生活、あこがれる。

でもそんな日は私に来ない。だから早めに死んでしまいたい。命を無駄にするなって怒られるかもしれないけど、本当に疲れるんです耐えれなくなるんです。



双極性障害のカラクリに気づいたから良かった、じゃなかった。気づいたら「自分操縦生活」が待っていた、やってみたらすごく難しかった。24時間気が抜けない。あぁ、疲れた。


みんなは平坦な精神状態でいれるのが楽なんだと思う。ていうか普通なんだと思う。私は平坦な精神状態を維持するのがすごく難しい。多分こんなこと言っても分からないだろうけど。